お休み中、わさわさと生る大玉トマト(桃太郎)&ミディ&プチ
塩梅よくナスが採れたところで新月サンが
「夏野菜のカレーが食べたい!」
と言うので、久しぶりに私が作ったカレー。
(普通のカレーは新月サン担当)
久しぶり過ぎて作り方忘れてたけど・・・
大幅には違ってないと思う(汗)
トッピングのブロッコリーは新月サンのリクエスト。
「彩は大事でしょう」だそうです。
この辺り私は構わなすぎて、よく新月サンに指摘されてしまふ・・・
常磐道で起きた煽り運転による傷害事件について、奇妙な出来事がありました。8月9日早朝、仕事に出かけるためその常磐道に入ろうとしたICで、珍しく検問に出会ったのです。
が、免許証の提示は求められず、丁寧な対話で、煽り運転が横行しています、もしそのようなことに遭遇したら距離をとってください。引き離せないと危険を感じたときは運転中でも110番を呼んでください。という指導を受けただけでした。
9日早朝ですから、例の事件自体が起きていません。あれを知ることになるのは12日になってからのニュース映像。ただ、10日の早朝には霰を職場に送っていくためやはり常磐道に乗っていました。
今考えると他府県ナンバーの白いやつに追い越されているような気がしますが、ま、こっちなんかスズキだし(笑・・・ってはいられない)ドイツのSUVなんかには相手にもされず事なきを得ていたのだと思います。
しかしそのことよりも、前日の早朝に、それと思しき話をもって注意喚起されていたという事実。ひょっとすると、7月に発生していたという愛知や静岡の事件を悪質とみなし、警察側ではある程度車種についての特定情報を手に入れ要所において網を張っていたのではなかろうか。
現に、僕は・・・どうやらSUVとみなされ料金所手前で停められましたが車種も色も異なるから対応が柔らかかった。僕の後にやってきた大型トラックは停止を求められませんでした。これが常磐道への入り口というところがなんだか因果めいてなりません。
不幸にして翌日、よりによって同じ路線で例の事件。被害に遭ってしまった人には同情を禁じえませんが、注意喚起の手際のよさに対して、それでも未然に防げないのねーという現実(悪く解釈すれば泳がせていたのかもしれない)、その後波状攻撃のように解禁される情報量とあっさり逮捕の幕切れまで、いろんな意味で怖い話だと思いました。だもんだから、この途上に総出でネットスネーク勢が無関係の人を同乗者だと晒してみたり、炎上狙いの「なりすまし倅」が現れたりのド素人展開には呆れてモノも言えません。
でもねー、結局運転って性格が現れるね。先日の相模川帰りの圏央道追い越し区間(いやそいうい言い方はしないか)で、相模ナンバーの古いラングラーに煽られましたよ。こっちが追い越しを終えて走行車線に戻るまで待てないのかよ。
世に盗人の種は尽きまじ。
今はNewおだてぶた(さん)というハンドルを使っていらっしゃる彼は、以前はTA31Wに乗っていて、これにありったけの改造を施し車高を上げて大径タイヤの太いのを入れてワイドフェンダー化。写真の奥にいる先代らすかるなんか地味なもんです。しかしそのためにディーゼルエンジンのトルクも奪われクロスカントリーでは難儀していました。ヒルダウンは良くてもここを登ろうとすると、エンジンを回さないと進めないし、回すと猪のような猛進となるのです。
しかし何がすごいかって、あのエスクードで関東圏や信州で開かれていたエスクードのミーティングに、夜通し岡山県から参加していたことです。
ディーゼルエスクードは岡山でも排ガス規制によって乗れなくなり、長いこと音信が途絶えていましたが、四代目エスクードの登場時にいち早く、それこそふたみさんやCyberKさんたちと同じくらい超初期の1600を購入しており、十数年ぶりの再会となりました。
相変わらずカスタム化には余念がなく、テンロクですがグリルを当時のヨーロッパ仕様に変えたり、未だに事例の少ない2インチ上げのサスペンションに交換したり、オフロード向けの性能を見出そうと頑張っておられました。
岡山から厚木までの650キロはやはり夜通し走ってきて、無給油で到着。現地には一番乗りで現れます。お互い車種は変わったけれど、エスクードに乗り続けていてよかったなあというひと時です。
こうして四代揃ったエスクードのなかで、確かに四代目は方向性を異にしているのですが、「モノコックモノコック言われたってモノコックなんだからしょーがないでしょ」と思いながらも、エスクードなんだから少しでもオフロード向けにしたいというユーザー層はいるのです。
このあたりのことは、来年になってしまいますがスーパースージー誌上でも主張していきたいと考えています。
1929年8月19日、世界一周途上の飛行船グラーフ・ツェッペリンが霞ケ浦航空隊基地に寄航し、土浦の街は大騒ぎのお祭り状態だったと、僕の祖母がよく話してくれました。祖母はこの年二十歳でまだ独身、でっかい飛行船が来るってんで土浦の職場も休止状態となり、同僚たちと隣町の航空隊近所まで歩いて見物に出かけたそうです(なんかそういう血を受け継いでいるよね、俺って)。調べてみたら月曜日ですよ。おおらかというか大雑把というか、そんな時代だったようです。
1929年と言えば、これも祖父母から聞かされた昔の事件として、3月に石岡市中が大火に見舞われ大被害が出ていた年です。祖母は玉造から石岡経由で土浦に働きにに出ていたのだから、影響は無かったんだろうか。と思っちゃいます。が、土浦では寮に住み込みだったらしいし、昔は鉄道(常磐線じゃなくて日本鉄道・土浦線と言ったらしい)がだめでも、霞ケ浦を使った舟便で土浦まで行き来できたようです。
さて飛行船は4日間、霞ケ浦に滞在したそうで、その間この異国のクルーたちをどうやってもてなすのよ? と土浦の人々も困った挙句に作り出したのが、海軍料理をベースにしたカレーライスだったとかで、これが戦後埋もれていたのですが90年代にレシピを復活させ、今でも「ツェッペリンカレー」として食することができるようになりました。昔のそれは野菜ごろごろのカレーに蓮根を加えたりワカサギを入れちゃったりいろいろと煮込んだらしいですが、現代のツェッペリンカレーは蓮根のみ、土浦の名産品として加味しています。
祖母からは蓮根入りカレーを作ってもらったことがないので、我が家にはツェッペリンカレーは伝わっていませんでしたが、よく出かける喫茶店「蔵」では、設えを変え乍らメニューに残し続けています。昔は週末のみとか1日何食分かの限定でしたが、現在はレギュラー化されました。奇しくも、ことしの8月19日も月曜日なのです。が、現代の世の中そんなにおおらかで大雑把じゃないので、盆休み明けに夏休くっつけるのも顰蹙買いそうだから先日、食ってきました。
madcrowさんの呼びかけに誘われ、相模川まで出かけてきました。
1月にも現地を走ってはいるのですが、それも併せてクロカンに赴くのは久しぶりです。しかし台風のあとだし現地はどれだけ「自然に還って」いるのやら。折り畳み椅子はともかく、なんぞのときの道具なんてソフトカ―ロープとスタック脱出用プレートしか持ってないんだよ(スコップ背負ってるだろうっ)
この場所に入ってくるルートは四つから五つはありますが、そのほとんどが水没したり崩れたりで、エスクードごとき(笑)では近づかない方が無難。少なくとも僕は単独だったので、独りスタック独り脱出なんか御免です。が、高台に一本だけドライの小路が残っていました。ただし藪漕ぎで、しかも生えているのがイバラ。それでも7台(うちのは撮影場所にあるので写ってない)がこれを通り抜け、四代にわたるエスクードが勢ぞろいです。
その四代目のnewおだてぶたさん、岡山からほぼ日帰り参加。十何年ぶりに再会できました。オフロード? 走りましたよそこそこには。だけどこの炎天下、日暮れまで遊んでいられるようなコンディションではありません。もうみんなで氷水のがぶ飲みです。なんだってそんなところをベースキャンプにしたんだ?って、11時くらいまでは右の土手の茂みで良い木陰だったの。でもそのあとは堰から入っていた風も止んでしまい、昼飯どころではなくなりました。
人様と同じような構図で云々とか生意気なことを書いてるやろーがいるわけで、そりゃーさぞかし誰も撮らない瞬間を切り取って悦に入ってるんだろーよと、鼻で笑ってやることを、お薦めしましょう。
それでまたなんだって仮面ライダーと人造人間キカイダーの共演なんだ? というこれが笑いのもとです。雑誌企画が成しえた、当時としては画期的で血沸き肉躍る握手。僕の場合ヒーローじゃなくて2台のスーパーマシンにやられたのです。
でもって、数十年後にこんなことやってる。大笑いでしょ?(大洗海岸だしな)
初期のS.I.C.ものって、材質の関係から、関節の可動ができるだけましながらも、無理に動かすとぽろぽろ取れちゃう。結局、サイドマシンに乗せた状態で握手できるところまで、キカイダーの上半身ををひねれなかったし、2号ライダーの自然な立ちポーズにも苦労しました。挙句に風が吹いてサイクロンは倒れる(笑)。
そんなわけで、人様の企画と構図を僕も真似しております。
前を行くぷらすBLUEが速すぎて、まーったく目立たないところですがどうにか撮れたってやつ。もたもたしていたらいなくなるばかりか山のてっぺんもフレームから切れてたですし。
こう撮るから。って、このときは前走の狼駄さんに告げていませんでしたから、前走車のせいではありません。国道から逸れた瞬間のこの景色は考えてもいなかったのです。
誰でも撮れるかもしれないし、そうでもないかもしれない。そのことよりも、出逢った瞬間の幸運を拾えるか拾えなかったか、かもしれません。まあこの場合はBLUEらすかるを停めている間に落球しちゃった感ありありです。
だけど、こんな風に書かれている事象よりはましだな。
というより、こんなことはずっと以前から示唆され危惧されていたことでした。四駆乗りにはその一面を理解していただけるケースが思い当たるんじゃないでしょうか。あまりのスーパーメジャーな林道は別として(いや厳密には別にしてはならんのですが)、たいていの場合、林道にせよクロカン遊びをする場所にせよ、原則として公にはしないという不文律がありました。どんな場所にも所有者ないし管理者がいて、多くの場合それらの相手に迷惑の及ばない範疇で出かけていたのです。
メディアがそれらの場所を日の基に晒し、あるいはそこで出会った他者が環境破壊だと言い始め、危惧が示唆され、気をつけなくちゃねと意見を交わしあったものの、クルマが代替わりしてユーザー底辺が広がると、この意見が次第に伝わらなくなっていきました。で、こんなこと書いてるともう煙たがられるのは必至です。かく言う僕も昔そういう場にて「四駆は危険な乗り物」と揶揄されたとき「何を今さら四駆と冠をつけるのか。車全般危険だろうに」などと食って掛かったことがありますもん。
だから、このインスタ映え汚染について、「たかが風景に何を今さら」とも思うわけですが、それより手前で「そんな、人様が撮ったものと同じところで同じ構図でファインダー覗いて楽しいけ?」と。でもこれ言っちゃうと、うちの「Sレイド」なんかが破たんしちゃうので、言動は難しいものです(たった今言っちゃったけどね)。その上で言動棚上げすると、極めて身近なその辺に、あなたにしか撮れない瞬間というのが、割とあるものですよってことです。もっとも左図なんて、百ぺん行ってこれ一回しか巡り合えていませんが。
終戦から10年以上後に生まれた僕は幸運だったけれど、子供時代にはまだ敗戦の片鱗が都会でも田舎でも、どこかしらに僅かに遺っていました。怪我のために軍隊にとられなかった祖父と、戦時中子供であった親父もまた、戦後の苦労を経験しながらも高度経済成長期へ生き続けられたことを幸運だったと語っていました。東京オリンピックの頃の我が家を思い出すと、裕福とは言えないよなあという記憶の方が強いのです。
幼稚園児の頃、祖父に連れられて行った上野公園で傷痍軍人という人々を目の当たりにしたとき、祖父はいくらかの寄付をその人たちに手渡したあとそそくさとその場を立ち去りながら、「忘れてはならぬよ」と僕に言いました。祖父は何も教えてくれなかったので、あとから知識を補完していくことになるのですが、うちがまともなうちになっていくのは、70年代に入ってからだったと感じます。
親父よりも僕との年齢差の方が少ない叔父貴が、あの当時どうやって漫画雑誌を買うことができたのかは(昨日、旧盆で帰省してきたから聞いてみたら、友達から友達への回し読みで共同出資だったらしい)知りませんでしたが、そのおかげで僕は「サイボーグ009」を連載当初から読むことができて、おそらく初めてのSFに触れた瞬間でした。
これが数年後、テレビ漫画となった頃は、009世界のフォーマットはすべて頭に入っていたのですが、ある日「太平洋の亡霊」が放送されたとき、戦争と祖父の言葉が同時に胸の内に吹き出してきたのです。この話を解説すると長くなるので、余所の人のブログに頼ってリンクを貼ります。
辻真先さんのオリジナル脚本であり、石森原作にはないエピソードのひとつでしたが、強烈なメッセージ性が織り込まれ、しばらくの間は反戦として作ったわけではなく・・・といった、心情を押しとどめざるを得ないようなコメントを制作サイドが語っていた記憶があります。しかし最近の書籍などでは逸話を語りやすくなっているようです。
守るべきは憲法なのか、そこに育まれてきた平和なのか。という議論はあるだろうと感じますが、戦後23年程度の時代、その戦争を体験した人々が作り上げた物語は、009世界を借り受けながらもある種のリアリティを刻んでいました。
いま、戦後74年。毎年この時期の風物詩のように制作されるドラマを無駄とは言わないつもりだけれど、風物詩になっちゃってませんか?とも思うのです。