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  ~懲りない傾向~

東北はやっぱり大陸なのよ

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東北は大陸だ。と言ったのは僕ですが、その元のコピーはJR東日本による「東北大陸から。」というCMです。島国日本で大陸なんて、どれ程誇大広告なんだよ? と思われるでしょうけれど、自分で走ってみると、この言葉は実感を伴うのです。日本橋から国道4号で青森市に行って帰って来るだけで、片道700キロを越える。陸送のドライバーや高速バスの運転手は偉大だと思います。僕の感覚だと、仙台あたりまでで最初の「いやになってきた」感覚が過ぎります。

おそらくそれは西へ走っても似たようなものなんでしょう。それを踏まえて東北が大陸というイメージは、たったひとつの地方でそれだけ広いからだという表現なのです。仙台暮らしをできたからこそ、青森までの距離を半分で済ませてこられましたが、東京から走ると仙台でいやになり、盛岡で絶望感が湧いてくる。以前、毎年のように浜松から大間まで走っていた酔狂なエスクード乗りもいました。彼に言わせれば、酔狂呼ばわりするならその前に自分でやってみろよという話(笑)

この、大陸を実感するボーダーラインが、僕の中では盛岡の北に横たわる北緯40度線です。勿来でも白河でもなく、ここを越えてこその東北大陸。まあアメリカに存在したルート66に比べたら、片道700なんてかわいいもんなんです。それでも、国道4号を起点から終点まで縦断とか、北緯40度を太平洋から日本海まで横断とか、そういったレイドを東北在住の間に実現できなかったことが悔やまれます。東日本大震災への遠慮を、どうにも払拭できませんでした。

東北ではあまりイベント企画できなかったのが残念です。

新番組

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てなわけで、昨日まで杜の都、今日から花の都。

電車の乗り方なんか忘れちまったよ。

こっちが婆ロス。

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ドキドキ

ふぅ婆が旅立って、緊張の糸がプッチリ切れまして。
吐き気と発熱に見舞われて寝込みました。
「やばいインフルだったらどうしよう(汗)」
と、慌てて病院へ行きましたが。
37.6℃っていう微妙な温度と喉の痛みも鼻水も出てないという事で「胃腸炎ですね」と診断されました。
「胃カメラのんだ事ありますか?」
「ありません」
「じゃ、念の為検査しようか」

・・・こんな軽いノリでいいのか?
そんなワケでついでにピロリ菌の検査もして参ります。

さよなら仙台

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振り返ったら最初の縁は2001年の3月。先代らすかるが200000キロを刻んだ場所が、宮城県庁のそばでした。実はそれ以前の東北行はすべて、仙台なんかすっとばして岩手県以北にばかり出かけていたので、この街はおろか宮城県をほとんど知らないままの、気まぐれなドライブでした。

ま、それにしても当時です。200000キロくらいで大騒ぎしちゃってるんだから、かわいいもんです。

まさかその10年後にここで暮らすことになろうとは。1000年に一度とやらの未曽有の災害を喰らおうとは。そのまま居つくことになろうとは。という仙台になりました。

うーん、結局は東北人ではない自分。パンドンを倒しながらも満身創痍で帰還するわけでもない自分(なんだその喩えは)。それでも、いくらかは後ろ髪を引かれながら、帰路につきます。・・・基地を通り越して厚木経由ですが(笑)

 

ちんまりとはしなかった。

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たびと同じサイズでした。

たびとちぃもお世話になったところで、ふぅ婆さま無事荼毘に付されてご帰宅。友達が最後のお別れにと持って来てくれたお花と並んでおります。

係のお兄さんが21才という年齢に驚いていましたが、年の割にふっくらとした体に綺麗な毛艶にも感心(?)していました。
で。お骨拾う段になって「年齢考えると、大抵は火の勢いに負けて崩れる事が多いんですけどね。かなりしっかり残ってますね、この猫ちゃん」と更に吃驚。
よく食べてたもんね、ご飯(度々体調は崩したけどさ)
こんなところで食欲魔猫の効果が出たか・・・。

そして風邪ひいたチビずは婆ロスのショックか、良くなる気配がありません(泣)

蒼いし懲りないし

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今の自分よりもずっと若くして鬼籍に入った賢治の言葉は時々難解だしさまざまに解釈されますが、これに感化されて東北に何かしらの憧れを抱いたのが十代のころ。銀河とか巨きな力とか、誰も中二病などとは言わなかった。

で、そういった概念や観念には、今でも毒されているわけです。熱を無くしたらおしまいなのよ。とか。蒼くがきっぽいけど、本音。

 

〆の晩餐

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たぶんほぼ初めて仙台を訪ねたとき(というのも、中学生の頃鉄路で宮城蔵王にスキーに来たことがあるので、初めてとは言い切れない)、牛タンの店を見出せずに普通に焼肉を食って帰宅していました。

それはそれでうまい肉屋だったんですが、北環状線沿いにあったはずのその店は、転勤してきたころ既に無くなっていました。

震災被災するまでの一カ月ちょっとの期間、物珍しさに駆られていろいろな店の牛タンを食い歩きするというお約束をしました。が、初仙台(ほぼ、初)で焼き肉だったことを思い出し、仙台〆の贅沢も牛タンではなく仙台牛にしました。

いやその、知りませんでしたよここに住むまでそんなブランドがあることを。だから真っ先に米沢とか前沢に出かけていたのですが、仙台牛もまた上質の和牛で、A5しか扱わないという生意気この上ない特選な品書きです。まあそんなですから気軽に暖簾をくぐれなくて、この8年で数回も食っていなかったので、どうせならポンド級でと思ったけれど・・・そうもいかない(笑)

名付けてウルトラ軽備隊

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作戦室の片付けも大詰めです。モノを持ち出したら掃除の一つもせんといかんかなと思い、ホームセンターに出かけたところ、目についてしまいました。

あるんだ、こういう商標・・・

しかも柄の長いやつと短いやつと二種類。どっちかが1号で、2号か!(それ使い手のお好みで判断だな)。残念ながら3号に相当するものはありませんでしたが。

ウルトラホーキ、とかウルトラフォーク、という名称は、60年代末期の少年誌において、ウルトラセブンのパロディとしてよく使われていたアイデアです。少年誌の編集部で勝手にイラストを描いたと思われる、空飛ぶ箒とフォークの図柄が、記憶の底にこびりついています。

ほんとにあるとは、21世紀の今の今まで知らなかったわ。でも買って帰った箒は屋内用で、名前は「隼」でした。

通いつめた日々

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8年前、窓の外のパーキングメーター枠に置いてあるBLUEらすかるのほぼ同じ位置で、路上被災しました。規則では大地震後の道路混乱を避けるために、車両は路肩に寄せてエンジン停止しキーはそのままにして徒歩避難なのですが、あのときは前を走っていたタクシーの運転手の助言で、一方通行の路地を走り抜けて作戦室まで戻りました。あの3分半くらいの状況は、言葉にしても表現しきれない。強いて言えば、心臓が激痛を生じるオーバーレブになっていました。

辛くもここで足止めを食ったために、出かける予定だった仙台空港近くにたどり着けなかったことが、逆に僕を救うのですが、それからの日々は無事なりに修羅場でした。

この喫茶店「パオ」に、最初に入ったのが被災の何日後だったかは忘れました。暖を求める客で満席のなか、一番窓際の窮屈な席だけが空いていて、そこでワンコインのカレーライスと珈琲をいただき、数日ぶりに温かいものを胃袋に入れられたのです。その後毎日、珈琲をテイクアウトして、紙コップに注いだ熱い珈琲を近くの事務所の部下たちまで運びました。

以来、やはりワンコインのモーニング(時々値段据え置きの大盛りが出てくる。写真がそれ。レギュラーはパンが二枚重ねなのです)を食いに、遅い時間の昼飯を食いに、いつしか指定席ができるに至るまで入り浸っています。路上にBLUEらすかるがいるので隠れ家にもならないんだけれど、パーキングメーターの時間内、店の旦那やママと談笑したり他の常連と対話したりの8年間。ローテーションの度合いは不明ながら、たまに出てくる日替わりランチの温野菜のカレーライスは絶品です。

がんばったね、ありがとう。

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またね。

ふぅ婆さま、今朝たびやちぃのいる虹の橋の向こうへ旅立ちました。
でんいちが風邪をひいてしまったので、獣医さんに連れて行こうと10時過ぎに家に戻った時には既に・・・
9時近くまでは様子みていたんですが、家を空けている間に一人で逝ってしまいました。
でんいちを病院に連れて行ってお話ししたら、先生が
「それは多分見られたくなかったのよ。住み慣れたお家で息を引き取れたんだから、幸せだったと思うよ?」
と言って下さり、ちょっとだけ救われた思いです。

風花通信を通してふぅを可愛がってくださった皆様に、
感謝申し上げます。