Trend-Blue

  ~懲りない傾向~

そろそろ追いつかれる新世紀GPX

そろそろ追いつかれる新世紀GPX はコメントを受け付けていません

「新世紀GPXサイバーフォーミュラSIN」を、ОVAシリーズの「11(ダブルワン)」から通しで観直ししてまして、テレビ放送版から数えたらもう32年、「SIN」の舞台であった2022年も過去になってしまったことを再認識しました。聞くところによると、「サイバーフォーミュラ」はサンライズのアニメ作品では異例の長さで、「機動戦士ガンダム(シリーズ)」に次ぐ長期企画だったということです。

「SIN」では第17回グランプリが描かれましたが、オーラスで第18回の開幕戦の様子が映像化されていて、まさしく2023年、今年の春ごろのシーンを見ることができます。プレイステーション版ゲームでは今のところ、第19回グランプリが扱われているので、まだ近未来ぎりぎりなれど、そろそろ追いつかれてきたサイバーフォーミュラ世界となっています。

この先ドラマの続きはあるのかないのか興味は尽きませんが、一昨年の三十周年記念でスーパーアスラーダの次期モデル(のミニチュア)が開発され先日発売されました。また、河森正治さんのインタビューで市販タイプのアスラーダ次期モデルのデザインというのも語られています。

制作側は、既に風見ハヤトの成長譚はやることやりきってしまったので、「SIN」においては加賀城太郎のドラマに仕立てたと語っています。が、そのエンディングに登場する彼の亡き親友の息子や、ゲーム版では2020年から登場している司馬誠一郎、カール・リヒター・ランドルのところで走っている女性ドライバーセラ・ギャラガーなど、サイバーフォーミュラを引き継ぐ世代は用意されています。

そうすると、今後の現実世界のレースが世間のニュースを席捲し再びブームが巡ってくるかどうかがカギになっていくのでしょう。

ライダー抜きで39作

ライダー抜きで39作 はコメントを受け付けていません

講談社のこの企画は余分な寄稿やインタビューなどは入れず、ただただ石ノ森章太郎さんの産み出した「仮面ライダー」と「アニメーション作品」を除いた特撮ヒーロー・ヒロイン、ファンタジーの主人公と演者、メカニックだけをこれでもかというほど盛り込んでいます。もう間違いなく僕よりもずーっと若い編集者たちが所蔵財産を発掘してくれています。ページ数に対してこの定価は、やはりあちこちへの版権処理で吊り上がってしまったのでしょう。

「仮面ライダー」は、それ自体がシリーズ化してしまったので、ここに網羅されなかったのはまあビジネスチャンスの分散ですが、それでも39作品という数。一人の萬画家がやってのけた仕事としてとてつもない。続編としてのキャラクター造形の連続性を別にすれば、ほぼキャラ被りが無い。それでいて「眼」や「坊主頭」に見るように石ノ森キャラであることの主張、嘴の中に剣道の面を持ち込んでしまう斬新さなど、個々の作品の独自性が際立ちます。

こういうものをまとめてもらって思うことは、あえて言っちゃうけど今の東映やスポンサーは作品のモチーフ扱いを恥じるべきだということです。あれだけのアイデアを毎年繰り出していながら、「仮面ライダー」に括ってしまうのは愚の骨頂だね。

空行く船は俺の船・・・いやでかすぎて

空行く船は俺の船・・・いやでかすぎて はコメントを受け付けていません

1/400ですから確かに全長1m。ウルトラホーク1号のときもそれで挫折したわけですが、同スケールの銀河鉄道999が一編成ついてくるとか、プレミアム契約購読すると戦士の銃が贈られてくるとか、「海賊戦艦ダイキャストギミックモデル」がもう卑怯すぎる(笑)

新世紀合金や超合金魂もので満足していたのに!

えーえー、置くとこ無いから購読できませんよっ

「下駄箱の上片づければ?」

よけーなこと言うんじゃねーよっ 全125冊でいくらかかると思ってんだよ!

1966 1993 2022

1966 1993 2022 はコメントを受け付けていません

なんだかipアドレスみたいな表題になってますが、引き合いに出しているウルトラプロップの年代です。1966は初代ウルトラマンに登場したフラッシュビーム(ベーターカプセル)。こういうカタチの懐中電灯など無かった時代に、懐中電灯で真似をして遊んだわけですが、ウルトラマンの色彩とはかけ離れた淡いグリーンの筐体と黒のラインには、子供ながら違和感しかなかったのを覚えています。といって、スプーンでやるのは別の演出の真似でした。

ずーっとすっ飛ばして1993年のウルトラマンパワードまで、「ウルトラマン(セブンも含め)になるためのアイテム」として、これは優れものだと思えたのがパワードで扱われたフラッシュプリズム。全然プリズム感がありませんが、仏教の独鈷杵をモチーフにしながらも、なんとなく地球のものではないよねえと感じられるデザイン。歴代ウルトラを通して、僕の中では最高峰の造形なのです。これがアメリカで理解されたかどうかは定かではありません。

そしてまたまた途中を失格させ、2022年のシン・ウルトラマンでリブートされたβカプセル。半世紀以上の歳月が、単なるプロップとしてだけでなく、工業デザインの考え方も取り入れ、携帯性も機能性も洗練されました。惜しいのはスイッチ部分がスイッチ然としていて、どこがそれかすら解らないフラッシュプリズム(中央部の発光部分全部がスイッチ)に軍配を上げたくなります。それでもこの余計な意匠をそぎ落としたそっけなさに、造形の見事さが宿っています。

「仮面」と「ライダー」の記号性

「仮面」と「ライダー」の記号性 はコメントを受け付けていません

令和版「仮面ライダー」も5作目になるそうです。既に平成版から「仮面ライダー」である必要のないシリーズが続いていて、ああ、これは「仮面ライダー」だねと受け手が認めてよいものはいくつも無いような気がします。放送コードの問題もあり、今だと改造人間という設定は使えず、強化服と変身ベルト(ドライバー)、マスクというガジェットに置き換えられて多くのシリーズが切り抜けてきました。今作「仮面ライダーガッチャード」も然りです。

誰もがわかっていて何も言わないことは、約一年間で1作のヒーローが作り出され、玩具を売り抜くためのマスク・・・よりもベルトや携行武器に支配された世界。視聴者側に浸透していると思われるカードバトルのシェアを維持するための、変身や特殊能力の発動アイテムから、逃れられなくなっているシリーズと言えなくもない。

もはや仮面もライダーも商品のための記号でしかない。おぢさんには「もうここには来るな」と言われているようです。が、曲がりなりにも仮面ライダー。ひとまずはバイクに乗るらしいので、そこだけ縋り処です。

しかしまあ・・・アフリカツイン持ってくるとはびっくりだ。

 

 

地上最強の美女

地上最強の美女 はコメントを受け付けていません

インターネットの情報に頼るしかなかった放送日の最終回(シーズン3)が、これがまた1978年5月説と8月説が出てきて「どっちだっけ?」と頭を抱えた末、後番組となっている「地上最強の美女たち チャーリーズ・エンジェル(シーズン2)」とのすり合わせをして、8月27日が「地上最強の美女 バイオニック・ジェミー」の最終話であろうと、めんどくさいことを頭に描いておりました。奇しくも本年8月27日も、バイオニック・ジェミーが放送されていた日曜日です。

3シーズンにわたってリンゼイ・ワグナーさん(演)、田島令子さん(声)というコンビネーションで繰り出されていたジェミーさんは、当時の少年にとっては羨望の的でした。女性のサイボーグといったらフランソワーズ・アルヌールが筆頭でしたが、アニメと特撮の違いがありますから、どちらもトップクラス。「600万ドルの男」のスピンオフであった同作が結果的に本家より多く制作されていることもその表れのようです。逆にシーズン3に至ると飽きてくるところもありましたが。

そんな少年心理をしっかりとらえていたのが、何を隠そう(違)あの吉田秋生さんで、連載漫画のたった一コマで当時の様子を「現代学生気質の縮図」として描いています。このシーンが出てくる「楽園のまん中で」は、79年の別冊少女コミック5月号に掲載されたものですが、吉田さんもあの頃だと20代前半だったでしょうから、流行を感じて番組を見ていたのだろうと思われます。この漫画が収録されている「夢みる頃をすぎても」も面白いです。

「八」はね、「末広がり」って言うんだよ

「八」はね、「末広がり」って言うんだよ はコメントを受け付けていません

「八は末広がりって言って、めでたいんだよ」

と言ったのは、アルペンラリーの出走ゼッケンで「8」を獲得した轟鷹也に対して、「ラッキー7」でなかったことを残念がった逢瀬半五郎を諭す鷹也でした。末広がりの形を持つ八は永久的に発展、繁栄、繁盛する数と云われています。ラッキー7は、野球で7回の攻撃あたりに投手の疲れが出る一方、打者の目は投球に慣れてゲームの転換期があるという、継投策の無かった時代の迷信のようなものです。

↑ということなら、両方持ってたら完璧ではないかと。

しかしことしの高校野球を見ていると、転換期は6回に多く見られたような(母校の試合のみ、かな)気もするし、所詮外来語縁起の7にはさほどの感銘も受けません。一方、轟鷹也はアルペンラリーでは妨害工作を乗り越えながらも最後の最後でタイヤトラブルとスタックによるリタイアなんですが、この敗退が轟スペシャル開発のヒントにもなった。末広がりは漢数字の表現で、算用数字にしたら「無限」が立っていますよ。

↑そんなわけで、僕だってこの並びは見たことありませんでした。

これは先取りできていたのか?

これは先取りできていたのか? はコメントを受け付けていません

「UFОロボグレンダイザー」を2024年秋に新作として放送

これは昔からフランスにおいて絶賛されてきた同作というバックボーンもあるでしょうし、リブート路線にあるマジンガーZやゲッターロボに続くカードに違いないのですが、ここにも新しいものを産み出せなくなってきた国力の衰退が感じられます。

それにしてもグレンダイザー。

全く関係ありませんが、うちのブログでは既に「切り裂け怒りのダブルハーケン、今こそグレンダイザーですよ!」とか、「アンフィニクラスを使い慣れた偉大な勇者で、リミテッドクラスには新機軸の宇宙の王者と使い分けることになります」などと例え話に絶妙な持ち込み方をしてました。まあただそれだけのことですが。

 

斗えサイクロン サイクロン

斗えサイクロン サイクロン はコメントを受け付けていません

『ツインリンクもてぎ』は昨年3月、開業25周年を機に『モビリティリゾートもてぎ』へ改称したそうなんですが、ここしばらく足を運んでいなかったから知らんかったわ。うちのナビゲーションだと旧名称だし、ラジコンのマシントルネイダーを走らせに行って以来(いつのことだよ?)だし。だから入場料も馬鹿みたいに高くなっていました。昔はレースウイークでない平日だったら駐車場代500円ぽっきりだったのです。

上の紛らわしくわざとらしいカットでもうお解りかと思いますが、なんでまたこの時期にもてぎまで足を運んだかと言えば、「シン・仮面ライダー」に登場した3種類4台のサイクロンが一堂に会しているからです。夏休み真っ盛りだから下手な時に出かけたら人だかりで近寄れんかもと思ったんですが、そこは平日(おい)、ホンダコレクションホールは入場者もまばらでインバウンドのアベックばかり。サイクロンなんかに興味を示す人はいません。

映画においてはラストシーンのわずかな時間しか出てこなかった「シンサイクロン」を、模型やら玩具やらよりも早く現物で観ることができたのは嬉しかったのですが、カラーリングが意外と僕の趣味ではないのと、フロントカウルのデザインがケレン味出しすぎで、四ツ目のサイクロン同様、作家性の問題はあるなあと感じました。それはともかく、CB250Rがベースのこのバイク、常用サイクロンと同じなのに想像以上にコンパクトです。

常用サイクロン自体が、CB650Rベースのサイクロンに変形していく設定のため、排気兼ブースターをはじめとする架装のために大柄に見えるのですが、それでもCB650Rそのものが意外とスリムなのか、両サイクロンが並んでいてもサイクロン・シンサイクロンの並びより「あーなるほどこうなんだ」と納得してしまう佇まいです。つまるところシンサイクロンというのは、政府筋の技術陣がより高機動小型化を実用化したってことなんでしょう。

しかしですよ。これを眺めた後、80年代にフレディ・スペンサーが乗っていたNSR500を見てしまうと、現代のオートバイがいかにスリムに作られているかがわかります。戦う、という意味合いではレースマシンもまた同じなんだけれど、現実のオートバイのスケールを見れば、「サイクロンに原子力エンジン」などという70年代のバカげた夢設定がいかに実現不可能かがわかります。ガソリンエンジンでサイクロンも十二分に戦えるって。

蛹から蝶に!←かなり迷惑な暗示

蛹から蝶に!←かなり迷惑な暗示 はコメントを受け付けていません

思春期の初心な少年に妙な暗示をかけるもんじゃありません。ましてや日頃、蝶の観察なんかやってないだろう相手が、暗示に釣られて変な想像力を働かせるもんだから、稲妻と超高圧電気の力には何の関係も無い、しかもかなり危うい眉間の吸収管(どう見たって蝶の口)という変身を遂げてしまいます。これはもう彼の超能力を覚醒させた少年同盟の責任です。こうして1973年8月12日の少年サンデー誌上に、「イナズマン」の連載が始まります。

一人のおじさんがスプーンを曲げ、オカルトというか超能力ブームを作り上げてしまったこの年、「イナズマン」もまた超能力の有無で突然変異種と旧人類の存亡を賭けた超能力大戦に持って行こうとした漫画でした。今で言ったら、主人公風田サブロウは中二病を誘発させられ、そこから潜在能力である超能力を覚醒させるのですが、当時を思い返すと少年誌関係こぞって「君も超能力者になれる」といったいい加減な特集記事を書きなぐっていました。いつの時代も大人のやることは無責任です。

しかしこの姿。仮面ライダーや人造人間キカイダーに続く異形の造形。お世辞にもかっこいいとは言えない。そこを再考したのか、同年10月に始まるテレビ版では、眉間のデザインが一新されました。でも頭のてっぺんとか垂れ目気味の玉子眼球とかが、動かないけど生々しい口元との融合で感情移入しにくかった。何十年もあとになると、よせばいいのに漫画版に近づけてしまう始末。まったくもって、変な暗示に乗せられるものじゃありません。