捩花、今年は5本咲きました。
でも、そのうち2本は写真のように捻じれていません。
ふーん、捻じれない事もあるのねぇ。
絶対に捻じれて咲くものだと思ってたわ。
仕事だったので、昼過ぎに洗濯物を取り込みに帰ったら・・・珍しい事に、新月サンの布団でお昼寝中。
(普段は私の布団にしか乗らないので)
窓は開いているにしても、毛布の上、暑くないンかな?
上達した・・・みたいだけど。
最近は伯父さん(新月サン)がバンドの練習に連れて行ったりして、ギターの人にアレコレ教えてもらったりもしてるそうですが。外野から仕込まれていく情報に技術が付いていかないという(苦笑)
まぁ習い始めて二年目ですから。そんなにバリバリ弾けたらスクール通わんでええがな(笑)
ま、これから暫くは〝お受験〟の方に心血注いでいただけますかね、お坊ちゃま。
月平均5000キロとして・・・
去年奇跡の復活したアボカドさん、結局枯らしてしまいました。新月サンには「手が回らなくて枯らすくらいなら最初からやるんじゃないっ!」と散々怒られてしまいましたが、諦め切れなくて今年も様子を見ていたら、なんと地面から新しい芽が出てきました。
今年こそ枯らさないで育てなきゃ・・・
やっぱり冬は屋内に入れてやらなきゃダメかなぁ。東京辺りだと路地でも大丈夫みたいんだけど・・・
石巻市の旧北上川河口にある中洲(中瀬地区)は、故石ノ森章太郎さんらによって「マンガッタン」という通称を与えられています。石巻を萬画文化で町おこしし石ノ森萬画館を立地させ、情報発信しています。本家のマンハッタン島のようにインディアン部族の言葉で「丘の多い島」というほど起伏のあるところではなく、さりとてインディアン部族が「俺たちがみんな酔っ払いにされちまった所」と伝えたような逸話が・・・あるわけないですが、石ノ森さんは少年時代、この場所にあった劇場まで実家から2時間かけて自転車で映画を観に通ったというから、両者の伝えからは心酔というキーワードにはたどり着けるかもしれません。
そんな場所ですから、マリンパークの一角に、自由の女神も佇んでいますが、起伏ばかりか強固な堤防を持たず、船舶を接舷させやすくして漁業や観光、流通の拠点としていたこの地は、津波被害をもろに受けました。そして痛々しい姿ながらも、じっと海を見つめています。
以前は本家ほどではないにしろ、教会やマリーナや工場などが林立していたマンガッタンも、ほぼ突端から奥の萬画館まで見通せてしまう現在。この中洲でも新たな堤防建設が始まっていて、その敷石に使う砕石が鉄の箱いっぱいに置かれていました。これがしばらく来ていないうちに、ほとんど全部、隣に設置されたもう一つの箱に移し替えられていました。
箱と箱の間には、なぜか事務机があります。引き出しの中には油性カラーマーカーペンが入っていて、誰彼となく、誰でも、砕石に日付や名前、メッセージを書き記すことができ、何かを書き込んだ石を、書き込み済み用の箱に入れてくれという、国土交通省と施工業者の試みです。書き込みを待つ砕石は、もうほとんど残っておらず、そろそろ回収して新しい石を投入した方がよさそう。
自由の女神は、像自体はFRP製なので、土に還ることはかなわないのですが、いずれ、復興の進展をみて取り壊される方針だとか。
それでいいと思います。
ディスプレイとにらめっこしてたら目が疲れたので、緑で癒そうと外の植木鉢を見に行ったら・・・ ちっちゃい花に見覚えのあるシマシマ・・・
「蚊が血を吸うのはメスが卵を育てる栄養源を確保するためで、オスは吸血しない。メスも通常は蜜や果汁をエサとする。」っていうのを、子供の頃読んだ昆虫図鑑で知っていたけど、実際に花の蜜吸ってるところを見たのは初めて。
ふーん、本当に蜜吸うんだねぇ。
またもや1号郵便投函箱丸型です。レギュラー仕様の朱色ではなく、カシスレッドに塗られた独特の赤。
このポストが「それ」であるかどうかを確認したら、どうやら本物は近傍の公園内にあるらしいですが、まっぶるマガジン秋田版の地図を見ていると、「恋文ポスト」とマーキングされた表記があって、その地図縮尺から正確な場所が分からなかったものの、道の駅ふたついにあるこのポストには、由来を記した看板が添えられています(でも名称までは明記されていなかった。うかつだった)
なんだよ、本物じゃなかったら記事の素材にならないよと思ったのですが、きみまち恋文全国コンテスト、というイベントのことは、それこそ20年近く前に別の場所、筑波研究学園都市で、地域おこしのためのシンポジウムに出ていて聞いた記憶がありました。このコンテストは1994年に開かれていますが、きみまち阪の町を訪れるのは、それ以来初めてのこととなります。というより、ここだったのだとは知らずに、二ツ井は大舘と能代の行き来の途上で素通りしていたのでした。
きみまち阪、と名付けたのは明治天皇だそうで、東北巡視の際に訪れたこの地の景勝に賛美を唱えたとか。その際、1通の手紙が明治天皇を待ち受けていて、その差出人が皇后であったというのが、コンテスト開催のきっかけとなっています。由来を記した看板によると
大宮のうちにありてもあつき日を いかなる山か君はこゆらん
としたためられていたそうで、なるほどこれは恋文だわ。と。いやはや、遠路はるばるやってきた地で、こんな手紙が先に届いていたら、嬉しくなってにやにやしちゃいますな。Eメールではこの味わいは醸しようがない。
恋文とは異なりますが、僕の場合、こんな出来事がありました。震災直後の混乱期、これはことのほか嬉しかった。