Trend-Blue

  ~懲りない傾向~

ゆめのあとさき

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風立ちぬ戦争は嫌いだが戦闘機は好きであり、美しい飛行機と言えば零式。しかしあまたの堀越二郎論には納得がいかないから、自分としてはこういうことじゃないのか?と考えた。という物語を組み立て、災害や富国強兵に翻弄されながらも堀越や堀が生きた時代を通して、戦争を鏡写しにしようと試みた・・・

宮崎駿さんが作った「風立ちぬ」をレイトショーで観たのが昨年の8月。葬儀やらなんやらで予約しておいたソフトを引き取りっぱぐれてしまいまして、先日ようやく回収して再び観てみました。

御婦人方がどう感じたかはわかりませんが、不器用な男が器用に立ち回る術も知らず、夢と引き換えに大事なものを手からこぼしていく。結果、伴侶に先立たれ、国を滅ぼしかけてでも、主人公は美しい飛行機を世に送り出しました。

いささか内容をはしょりすぎた概略ですが、ひどい、身勝手、残酷という言葉が並ぼうとも、人はそういう献立に見入ってしまうし、それだけ本音をぶちかましたらそりゃ照れるだろうなと思われる作り手も、筆折宣言で耳目をちょっと異なるところに集めてしまうので、長きにわたって語られる映画ではなくなりました。アンデルセンの童話をモチーフにしたアメリカのアニメーション映画なんかよりもずっと中身の詰まった話なのに、本音をぶちかますやり方を興行的に利用されたことも仇のような気がします。

戦争は嫌いだが零式艦上戦闘機は好きな飛行機の中でも特に美しいのだ。という考えが根っこにあってのことかどうなのかは、受け手の想像にしかなりませんが、たぶんそこは重要な話ではなく、零式を飛ばすまでに至る二郎の生き様こそが宮崎さんの見せ場だったのかなと感じています。

最後の最後で、ジャン・カプローニ伯爵から「あれが君のゼロか」と問われたあとに、零式が編隊飛行でやってくる。レイトショーの時にはこれでがっかりしたのです。仕事の集大成を見せる上で、編隊はいらんだろうに。たった1機でよかったはずのところをあれだけ出して、大した動かし方もしないのは、やはりそこらへんはもうどうだっていいんだという本音も交えていたのかなと・・・

本日、7月6日は、1939年に零式の初めての試験飛行が行われた日です。