コロナが下火にならない限りは、遠出もままならんし。 こんな光景いつになったら見られるかしらねぇ。 残暑企画でアニさまからお尻叩かれて依頼されて 作ったけど、送らなかったうちの一点。 あああ・・・爽やかな高原でゆっくりしたいぃぃ
四十年の因果地平
テレビシリーズの「伝説巨神イデオン」が放送開始となったのは1980年の5月のことで、今頃何を書き始めるんだと思われそうですが、その年の8月7日に第14話が放送され、地球連合軍前線基地ブラジラーでの激戦が繰り広げられています。基地司令のカミューラ・ランバンとユウキ・コスモの邂逅と死別を描いたエピソードは、後にカミューラ・ランバン・アタックと呼ばれるイデオンの全方位攻撃を繰り出し、バッフ・クランを退けます。
まだこの頃は、最後の最後まで登場人物がどれほど翻弄され命を落としていくかを想像しきれない、展開の途上でした。が、そこまでやって打ち切りの最終回か! とはぐらかされたのもつかの間、2年後の「劇場版発動編」で肝を冷やされ、ややこしいけど前の年にカタストロフしていた「劇場版宇宙戦士バルディオス」の衝撃の結末を上書きしてしまうのでした。巻き戻して40年前の夏はまだ、娯楽で見ていながら異様な緊張感が残る、そんなアニメーションでした。
ただ、これを手掛けた富野由悠季さんはずっと以前、「無敵超人ザンボット3」や「無敵鋼人ダイターン3」で、イデオンが極限まで行ってしまった因果の片鱗をちらつかせています。特にザンボットは冷静に考えるとイデオンよりも凄惨なのですが、それにはいずれ触れる機会を探すとして、イデオンには作り手にも視聴者にも共通の鬱屈を感じさせる異質さがありました。すごい威力であることを認めながらも、リメイクは望まない作品だよと思うくらい、自分の方が年老いてます。
お売り下さい
って言われましてもねぇ(笑)
このコが居らんと生活出来ませんがな。
のまちゃんの向かい側に停めてある、
義弟2号のビートルにも挟まってましたよ。
営業中の会社の敷地にズカズカ入ってきて
挟んでく根性がすごいわ。
(敷地の一番奥に停めてあるのに)
みたびやっちまいましたよ
守谷サービスエリアに立ち寄ったら、なんか面妖なものが売られているのを見て、いったいこれはなんだ? とガン見していて、
「ぁ゛・・・」
賢明な皆様はもうお分かりのことと思いますが、
ああっ、俺はたぶん疲れているんだ。人並みに十二指腸に潰瘍だったり胃にポリープだったりのストレスも蓄積してたし。まさか「スタミナまうんてんな重」やら「謎のモリカタヌキ」の轍をまたしても踏むとは!
やっと暑くなったので〝なんちゃって冷風機〟出動。 ま、でんいちはあんまりここ来ないけど。 未だに亡き婆にゃの縄張りなんだろうか??などと思ってたら 来ましたよ姫ちゃんず。 生まれて初めての夏だもんねぇ・・・ 熱中症にさせないように気を付けないとなー
Team WESTWIN Warriors#148
「後藤さんが乗っていたエスクード、僕がもらっちゃってもいいですか」
島雄司監督に、梅津知浩くんがそう言ったそうです。いずれそうなるだろうというビジョンは出来上がっていますが、今はまだその時ではない。彼は今、1600のエスクードを自在に操るためのステップにいますから。
ところがその梅津くん、僕にこう言うのです。
「(だから)普段使いのできる街乗り用のエスクードが欲しいんですよ」
後藤誠司くんのエスクードも梅津くんのエスクードも、ナンバーを取れる状態ではありません。梅津くんが島さんに言った言葉は、レースにおいて。僕に言った言葉は、レースに勝つために片時も離れずエスクードを走らせたいという野心、です。
「私はとても不思議な感慨に浸っていますよ。後藤君が子育てのために戦線を離れて夫婦でむつまじくやっているなか、うちの店で何が起きているかというと、TDAのことを知ってくれた若い人たちが、後藤君のエスクードを見学に来る事象が増えているんです」
TA51Wは、半ば伝説のエスクードになり始めているそうです。後藤君の走った10年近くの戦績は、伊達ではないということですが、事実上そのエンジンが休眠してしばらく経っています。にもかかわらず、見学に来る人がいるとは。
「そこへ来てチヒロの言い分が、あれで走ってみたい。ですから、あらためて後藤君の刻んだものの大きさを噛み締めますし、チヒロや見学者の感じていることも胸熱ですよ」
梅津くんは今、雑誌やインターネットを駆使して、この世代のエスクードの情報をかき集め、むさぼるように読み解いているそうです。その途上、エスクードの構造や走りに関して詳しい人と仲良くなれたというので「そりゃよかったね」と思ったら、その人ってTA01Wさんだったという「さもありなん」な逸話もついてきました。
梅津くんが後藤くんや川添哲朗くんの域にたどり着くまで、ざっくり10年と見積もったとして、それでもその頃の彼はまだ20代。これが何よりも強い武器です。エスクードなんて初代モデルは「40年前のクルマ」になってしまうのです。今の時点でだって、10代の若者が30年前の・・・51Wは20年ちょっとですけど、そんな骨董レベルのクルマに強い執念を抱いていることは、確かに感慨深いことです。
川添くん曰く
「ごっちゃんの子育てが落ち着いて、『とーちゃんの背中』を見せたくなるまで、あと2年か3年ってところじゃないでしょうか」
そのちょと先のある日、梅津くんがどれだけ力をつけて、後藤くんとマッチレースの一つも繰り広げることになれば、楽しみは前倒しです。勝敗はさておき、そうやって梅津くんがウエストウインの後押し役を背負っていく日は、いつか必ずやってくるはずです。
珍しく明るいうちに帰宅した新月サンが、玄関開けるなり 「おいっ!ちょっと来いっ!」 と叫びまして。 何事???と思って外に出たら脱皮したアブラゼミ。 場所は我が家のブロック塀。 ・・・どこから来た??? 脱皮したての蝉なんて、何十年か振りに見たわー。
休暇じゃないです仕事です
再び在宅勤務態勢が敷かれたことなど全く知らず、朝から100キロの遠出仕事。往復してもどうということのない距離ですが、なにがテレワークだワーケーションだ!な日常は続くのでありました。午前中の仕事を完了させて、しかしよくよく考えてみると「いろは坂の下の日光」の街は、ほぼ通過してしまうため昼飯を食う当てがありませんでした。そんな状況で、ずっと、何の店だったかも知らなかった寺社建築の前を通りかかり、「日光食堂本店」の看板を発見。
神橋近くのこの店は、聞けば築130年を経て国の有形文化財の建物だとか。でも屋根の色合いってこんなに派手だったかなあ?と店内に入ると看板とは異なり「匠」という名の洋食屋でした。階下は土産物屋と蕎麦屋らしいけれど、表の通りも人はまばら。この連休も4日間で100人程度しか来客が無かったそうで、そりゃ経営大変だろうなあと誰もいないフロアでひっそりと昼食です。那須の若鳥(日光だけど那須なのか)のグリルは、なかなかの絶品です。
梅雨が長引いたせいもあって、植え込みに水撒きしてませんでした。 アマリリスやらシクラメンやらには土の乾き具合をみて 水遣りしてましたけど。 土曜の度に天気が悪くて、今年はとうとう刈込出来なかったサツキ。 新月サンが「どうせ何処にも行けないから、お盆にでも刈るか!」と 言ってますが(汗) 流石にこの暑いのに刈込なんかしたら、木が弱るのでは・・・ それ言ったら「基地の木はどーすんのよ」とか言われそうだわ。 (いや、そもそもベースの暑さが違うってば)
既に密「林」だったのよ
長雨が続いたこともあり、放置せざるを得なかったつくばーど基地の表も裏も密林状態。裏手は雑草が背丈を伸ばし、あぜ道が獣道(実際、猪道となっている)。表は表で生い茂った木々の枝葉で太陽光が遮られ、木陰になっていいじゃんどころか雨が上がっても地面が乾かない。という惨状を開墾すべく、新月さんと風花さんが手伝いに来てくれて、クサカリバーの出動、こちらはタカエダキリ―を振るって侵食してくる枝はらいをしておりました。
折しも作戦の繰り広げられた土曜日に、関東地方も梅雨明け。さあこれから暑くなる日々だぞ。二か月もしたらまたグリーンハザードになるけれど、今回表庭だけでも軽トラ二杯分くらいの枝打ちと草刈を、新月さんはおそらく二トン車一台分くらいの草刈をこなしてくれたので、風通しは良くなりました。陽射しが入ると基地のぬかるんでいた地面がみるみる乾いていくのは圧巻です。そして週末の夜、寝こけている最中に手の指をつるわ筋肉痛で寝がえり打っては痛ててと唸ってました。