Trend-Blue

  ~懲りない傾向~

千葉の仇は青森で

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アジフライ先日、エスクード仲間による内房林道ツーリングと名物アジフライ定食のイベントが催されていながら、つくばーど基地では、保有する4台の車両の冬タイヤから夏タイヤへの換装作業が待ち受けており、しかもそれを1人でやらねばならず、外出どころではなかったのでした。

不思議なことに、作戦室近郊の定食屋にはアジフライの献立が無く、玉砕以前の不戦敗。その後暇つぶしに読み返す吉田秋生さんの「海街diary」にはたびたび鎌倉の名物らしき旨そうなアジフライ定食が出てきやがって、ちくしょーいつか見てろよーという日々が続いていました。

逆転の献立は意外なところから巡ってきて、朝イチの秋田市、続いて能代市と行脚をしながら青森市を目指す途上、比内地鶏の看板が誘ってくるのを横目で素通りし、それ以外だとラーメン屋ばかりだなあと昼飯のタイミングをすっかり逸して東北道に乗ったところ、津軽サービスエリアの下り線にある食堂に、何気にアジフライ定食があるではありませんか。

こういう形態の食堂だから、もちろん冷凍ものだよねとは思いながらも注文してみると、

「今から揚げるので少し待ってくださいね」

というお店のおばちゃんのにこにこ顔に、そりゃもういくらでも待ちます、午後のアポイントに遅刻したって構わないです(おい)と、待つこと約10分。出てきたのは想像以上の肉厚の切り身がからっと揚がっていて、さくさくとした衣の中身はホクホクのふわふわ。

あ、ありがたや、津軽。1カ月近く膨らませていた煩悩が一気に解脱する思いでした。

ドクターカー2号

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ドクターカー二号先日の秋田・青森・岩手行脚の往路の朝、「あまちゃん」を見るために(笑)秋田自動車道のPAで車載テレビの受信局を仙台から秋田にチューニングしていたら、いきなり独特のマーキングを施された三代目エスクードが現れたので、あわてて写真に撮ろうとしたけれど、こんなのしか写せませんでした。そのニュースは、エスクードがけん引しているユニットの方で、現地搬送して組立使用する、緊急手術用の移動手術室が開発されたというもの。世の中はドクターヘリが普及しつつありますが、ヘリが着陸できない場所だったらどうなるのか、あるいはヘリの飛べない夜間のコード・ブルーにどう備えるのか、という課題への解決策だそうです。

このエスクードは、青森県八戸市にある八戸市民病院が運用中の、ドクターヘリと共同作戦をとるドクターカー2号(1号はトヨタRAV4)。彼らのブログにて、その存在は知っていたのですが、エスクードと言ってもどの型式なのかがほとんど露出されておらず、そのうち八戸に見学に行っちゃおうかなと思っていたのですが、3代目であることが確認できました。

って、ニュースの内容と違うところに興味が走っているという、けしからんお話。

その日の東松島

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東松島土曜日の仕事が東松島市の野蒜というところで、この地も多くの人々が津波被害に遭ったところでした。この2月に始まった堤防のかさ上げによる地方道の復旧は、聞くところによると早い部分は来月中に元通りになるとか。野蒜の奥地では高台移転の工事も始まっていて、日に日に山が削られて地形を変えています。界隈の街並みは2年前のままですが、復興のフェイズは確実に前進しています。

その話はさておき、野蒜から東松島市の中心地に向かって国道45号線を走ると、青く塗られたT‐2練習機の128号機が沿道に展示されています。

正確にはJR仙石線の鹿妻駅駐車スペースで、合併前の矢本町時代に空自から提供された、町おこしのモニュメントです。練習機が何故モニュメントになるのかと言えば、この機体がブルーインパルスで使用されていたものであり、現在の東松島に所在する松島基地がブルーインパルスのベースとなっているからです。第11飛行隊についてはかき出すときりがないのでリンクで割愛。

b-i現役のブルーインパルスは、90年代にT‐4練習機へとスイッチしており、実際に訓練や展示飛行で見ることができるのもT‐4のみです。松島基地は震災の折、津波による大打撃を受けましたが、ブルーインパルスは九州新幹線開業の祝賀飛行というミッションのために東松島を不在にしていたことが、不幸中の幸いでした。

この偶然と、ことし3月末の帰還は、作家の有川浩さんも素材に取り上げており、ドラマにもなりまして、「空飛ぶ広報室」という題名は、航空自衛隊の広報サイトも拝借しているようです。

普段はあまりテレビドラマを見ていない理由として、仕事の軸線と恋愛の軸遷とを同列に配置してしまう傾向が強い番組づくりがあります。まーなんというか、仕事中は仕事に集中しろよと・・・仕事中に遊んでいるとしかみなされない僕が言っても説得力はなさそうだけど、そのあたりの展開が鼻につくから、見ない傾向なのです。

もっともそれを言い出したらドラマにならないので、文句を言う筋合いでもないです。が、空井二尉の「2秒ください!」のキスシーンには、やっぱり「やれやれ」と思っちゃったのです。

それでも、つくばーど基地へ帰るとしっかり録画して保存しているものだから、ちゃっかり見ているわけですが、本日がいよいよ最終回。前回、2年前の3月11日で幕切れしたとたんの、本年3月が舞台だそうで、その1週間のインターバルにはもっともっと沢山のエピソードがあったんだろうなあと、2年とちょっとを振り返ってしまいます。

今週は帰省していないため、「あの日の松島」により近いところで過ごしているため、21時になったらリアルタイムで観てみますかね。

接   舷

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サン・プリンセスクルーズ客船というのを、まあ乗ったことがない以前に見たことがないので、青森の出発を1時間遅らせ、港まで見物に行きました。全長で261メートルくらいだというから、ペガサス級強襲揚陸艦の1番艦よりちょっと長い(なんちゅー例えだ)

昔はひとくくりに豪華客船、だと思っていたのですが、一泊最大400$ほどのプリンセスクラスだと中くらいの豪華さで、絢爛まで行くなら上に2つあるらしいです。来年は、100000トンを超えるダイヤモンド・プリンセス(クラスは一緒)もやって来るそうです。

おまえは其処で乾いてゆけ

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三角の塔へなんだか去年も同じようなことをやってまして、さっき見物してきたのですが、獣の槍を携えた少年も黄色と黒の縞模様の妖怪もいませなんだ(いつの話だ)

とりあえず寝ます。起きたら一路、盛岡経由(福田パンではないぞ)で午後3時までに仙台です。が・・・昨日の仕事の最中に、本日朝、サン・プリンセスという77000トンの大型客船が青森港に寄港してくるという話を聞いてしまい・・・

うーん、どうする? せっかくだから見物したいし・・・これは乾いてなんていられないよ。

タッチ・アンド・ゴー(無理)

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f4ej-680午前11時に羽州街道と能代街道の交差するところにたどり着いて、午後4時に松前街道と陸羽街道の交差点付近に行けと、本社が言う。

出来れば、その足で陸羽街道から宮古街道に切り替わるところに・・・

「できるわけねーだろうっ」

だいたい、朝一で新幹線使ったって、午前11時に能代になんか到着できないって。そのうえ、BLUEらすかるは音速は出せないんですから。

二本目の胡瓜。

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今度のは大きい。オマケもちょびっと♪

今度のは大きい♪

この前とは違う方の胡瓜が程よく育ったので収穫♥
違う種類を一本ずつ植えたんだけど、見た目が全く違いました。新月サンが見るなり「水足りなくてしわしわになってるみたい・・・」と言ってましたが、味噌つけて齧ったらかりっとしてて、ほんのり甘みがあって美味しかったよん。
(当然、水が足りない訳ではなくこういう品種)
ピーマンとナスは初収穫。

フランス式?

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幸福の黄色いポスト黄色の郵便差出箱一号丸型。フランスやらドイツやらの文化に習ったのかと思ったら、黄色いハンカチの映画に倣ったのだとか。このポストから手紙を出すと、幸福がやってきたり贈れたりすると。

なるほど素晴らしい。ペーパーメールと電子メールの比率は、きっと電子情報側に傾いてしまったと思われますが、手紙の書き方というのは、一つの文化としてみても他者とのコミュニケーションの手段としても、忘れてはいけないものだと感じます。しかし僕なんかひどい悪筆なので、葉書やら便箋やらにはモノを書けない人種の1人です。それ以前に駄文しか書けないし。

ところで、黄色いポストというのは、国内にはほかにもあるのかどうか探してみたところ、福岡市城南区の花みずき通りふれあい広場と、「JR日本最南端駅」とされる指宿市の西大山駅にあるそうです。なんと、九州に二か所もあるというのがすごい。

虹。

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きれいな弧。

きれいな弧。

3週間も前の出来事ですが。
仕事を終わって帰ろうとしたら、夕日が射しているのにパラパラと雨が降っていて。ふっと東の空を見たら、綺麗な虹が。あまりにも大きかったので、私のコンデジじゃ一枚に収まりませんでした。

最近、こんな綺麗にまぁるい虹を見ないなーとしみじみ眺めていたら、みるみる薄くなって、5分も経たずに消えてしまったという。綺麗なモノは儚いわねぇ。

東洋のアルカディアにて

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米沢牛イギリス人の教師が、食いたくて食いたくてもう辛抱たまらんから食わせてくれと懇願するまで、置賜地方で農耕家畜である牛が食材にされたことはなかった。というエピソードを冷静に考えると、「黒毛の和牛が食卓に上がった」ことと「米沢牛ブランドの誕生」には、直接の因果関係はないんじゃないかなあと思わされまして、要するに「和牛、たまらなくデリシャスです」と「この価格」という部分を直接結びつけるためには、別のファクターが絶対に必要なのではないかと言いたいのです。

しかし、美味いだろ? というその部分は否定できない迫力があります。

哀しいことはただ一つ。牛丼を特盛で食うのが贅沢だった年齢の頃に、とてもじゃないですが、こういうのを好きなだけ食えなかったってことですかね。もっとも今だったら牛丼だって特盛じゃ頼めない年頃になっちゃってますが・・・

置賜地方を東洋のアルカディアと言い慣わしたのは、牛を一頭買って帰ったチャールズ・ヘンリー・ダグラスさんが米沢を去った後、「日本の奥地を見聞するのよ」とやってきたイギリス人牧師の娘こと、イザベラ・バードさん。ただこのご婦人の旅行記は、その風景風物に対しての評価は高いけれど、当時の日本人の体型、風格、メンタリティなどについてはかなり辛辣です。

食文化からして違ってたんだから、そりゃしょーがねーじゃん。とも思わされます。