ここはひとつ前沢牛・・・には違いありませんが、食ったのが給料日前だったので安めのところを探して平泉をうろちょろし、前沢のステーキ丼を見つけ出しました。
ワイルド系の米沢に対して、マイルド系な前沢に当たりました。これは上品でうまかった。もちろん安いなりに高いんですけど。
しかし霊験あらたかなのか時期を逸しているのか。
酷暑も猛暑も鳴りを潜めて24℃くらいが最高気温のここ数日・・・
自分にとって、スズキエスクードに乗り続けている年数だけは誰よりも長いのが取柄(そんなの自慢になるのか?)らしき話ですが、その僕も10年前の8月は、2号車のノマドはあったにせよ主力車両を持たない浪人時代でした。TD61Wを練馬に見に行く前夜の夜会で「雷蔵です。すみませんがエスクードに乗ってません」と挨拶して笑いを盗っていました。もっとも、つくばーどはエスクードに限定したイベントは開催しないので、今でも何に乗ってこようが関係なしです。
それでも、「雷蔵が次に乗るクルマがエスクード以外の何かであるはずがない」「エスクード以外だったらそこは袋叩きよね」という声は、8月いっぱい周囲で吹き荒れていて、わざわざ61Wの契約の日にそれを見届けに駆けつけてくれる仲間も出てきたという、そんなに他人事と思わないでくれていたの? と恐れ入る展開もありました。この日あの中味は錆まみれのエスクードを実際に見聞した人たちは、「こんなのに乗って大丈夫なのか?」と不安になったことでしょう。
この頃つくばーどには手芸部なる、霰、霙と遊んでくれる分科会があり、娘らのために時間と労力を費やしてくれる仲間もありました。記録を見たら新宿、練馬に続いてその翌日に基地とその近所で夜会になっていました。年末年始でもないのに3連続とはすごいことになっていた。先代のらすかるで育ってきた娘らだって、家のクルマが無くなったことには傷心でした。手芸部の面々はそんな娘らを元気付けにやって来てくれたのだと、10年して気がつく馬鹿親です。
早いものです。10年経ってしまいました。あの日、東京は練馬のスズキ直営中古車販売店に、まだ白かったとにいさんのTL52Wに乗せてもらって出かけて行った時、2度目の月軌道到達もその先のことも考えちゃいませんでした。この日の10日前に先代をぶつけられて全損の憂き目に遭い、目の前真っ暗な中、自分の条件に見合ったエスクードは、インターネット上に3台を見つけていましたが、そのうち1台のTD11W(青)は島根県。2台めのTD11W(緑)も愛知県でした。
唯一関東圏で見つけたのがTD61W。1オーナーもの96年式で8万キロを出していましたが、中古車なんて当節そんなものだろ、と現車を見に行きその場で現金支払いの覚悟で臨みましたが、事前に電話で問い合わせたときにお店の人は「いやしかし・・・状態は良くないんですよ」と教えてくれた通り、それはもう普通の人だったら絶対手を出さんわなという見えないところは錆まみれのエスクードでした。サイドステップなんかステップ側の取り付け部材が腐っていたしね。
半分びびるお店の人を前に現金払いで契約書にハンコを押し、納車まで9日ほど時間を下さいと進言されたことには快諾して、9月5日の引き渡しを待つことになります。巷では3代目エスクードが久しぶりの好評の出足で、V6だったらTD94Wが存在していたときに、わき目も振らずに初代の後期モデルですよ。それも極上品ならいざ知らず、手負いの野良でも拾っちゃった状態。お店のせいでもなんでもありませんが、言ってみれば体よく在庫処理できた売り買いだったと思われます。
現在の姿、そんな風には見えないでしょ?(ぱっと見には、ですが) 普通の人だったら満足して乗り換えるであろう22万キロまでまともに走ったし(満足しなかったからエンジン載せ替えましたよ)、月軌道2度目も果たせたし、今じゃ暫定2位ですから。あの日、9日間をかけて出来うる限りの錆落としをやってくれた練馬のお店には、今なお感謝しております。さらにはこれをコンディション維持してくれている二代目主治医と、地元のディーラー整備課にも頭の下がる思いです。
1人暮らしの勤め人とはいえ、車1台を所有維持するのはそこそこの経済負担となります。だから維持しやすいアイテムとして、まだ漢字を当てず、ローダと名乗っていた青年は、それまでJA71パノラミックルーフに乗っていましたが、いろいろあってこれを手放し、しかし不便にも限度が来て上司に相談のうえ、JA51の出物を見に出かけていくことになります。
ああ、前回から6年経過しております。95年夏の話です。
ジムニー1300は、青年の経済負担内でもどうにかなりそうなプライスタグがつけられていましたが、彼はその中古車店で、偶然にもエスクードと邂逅するのでした。5年落ちながらなかなかの値段であったエスクードはしかし、彼の上司が乗せてくれたカルタスコンバーチブルと同様、車体後部が幌で構成された独特の佇まい。
彼は一瞬にして「ルシア」と再会し、恋に落ちてしまったのです(たぶん)。そうして彼の描く物語は、海へ走り山へ出かけ、同じエスクードに乗る仲間とのコンタクトを通して全く異なる世界を導き出していくのです。原稿用紙に独り向かうのではなくウェブを使った能動的なコミュニケーション。「Eact」の誕生。90年代後半、エスクードを素材にしたウェブサイトがいくつか登場していく中、ツーリングやデイキャンプを企画し自ら焼き肉を振る舞うスタイルをとって、多くのエスクードユーザーをオフラインで結び付けていったのが、白いコンバーチブルと、彼です。
その動機はどこにあったのか。まだ「ルシア」の名をカミングアウトしていなかった当時の彼に聞いたことがあります。それが99年の、第1回目のつくばーどでした。残念ながらその頃すでにEXCALIBURは無く、我が家のエスクードは「らすかる」に代わっているのですが。お互いに名付けたアイテムの持つ宿縁を知りませんから、雨の日のバーベキューが淡々と続くばかりです。
「僕だってヒトの彼女と巡り合いたいんですよ」
実に率直な願望でした。いやしかし、「ルシア」の車内は西に東にデイキャンプの道具を搬送してきた反動として、油と焼き肉のにおいが染みついており、ネギまみれと呼ばれる今なお健在のあの焼肉の美味さには申し訳ないけれど、それじゃあ女の子なんか乗せられないよという残念な状態となっていました。
がしかし、2000年春に開かれたカレーコンペのつくばーど では、何気に隣にいるのです。それが「ルシア」を手に入れてから5年越しの望みの一つがかなった証。ここで初めて、女性名詞であったルシアは人知れずその名をたたみ、「白狼」へと移り変わっていったのだと思われます。こうしてみると、狼駄さんがエスクードコンバーチブルを所有していたのはわずか5年と、意外にも短い期間だったことがわかります。ただこの5年間というのはエスクードの右肩上がりの時代でもあり、ユーザーコミュニティーについても黎明期でありました。
クロカンのエキスパート、林道知識の専門家、カスタム化の先駆者と、様々なエスクードユーザーが各地で活動する中、オンラインで彼らを結び付けたユーザーとして、ノマドに乗っていたひできちさんという仲間がいました。そのオンラインのコミュニティーをアウトドアに連れ出し、その様子の語り合いをひできちさんの掲示板に戻すという双方向の窓口を立ち上げていったのが、狼駄さんと白狼だったのです。
ご存知の方は既読のコンテンツだと思われますが、この項を「外伝」とした理由は、本人による「白狼伝」が存在するからです。そしてこの正伝がまだまだ完結にはほど遠そうなので、続きを読ませてほしいからという邪な考えも手伝っています。
それからもっと重要かもしれない要望。現在の「ENCOUNTER」サイトのミーティングレポートの大半がリンク切れ。あれだってエスクードの交流の大事な記録ですから、ロートル勢の物忘れがひどくならないうちに再構築を遂げてほしいところです。
というわけでこの項完結。次は週末関東民のお話を来月から。
国際協力機構(JICA)の案内が入ってきて、機構が技術や政策支援協力をしているベトナムのハイフォン市から、科学技術や天然資源環境、建設などの担当役人が来日して宮城県庁やら仙台市やら民間工場やらの視察をするからよろしくね。と書かれていて、よくよく見たらこの民間工場というのが6月に見学させていただいたJAC蔵王資源リサイクル工場でした。そういえば真野社長、昨年はベトナム出張が続いていたなと思い出しましたが、リサイクル技術の提供だったようです。
ハイフォンと言えばベトナム有数の港湾都市で、戦争時代も攻撃目標にされた街ですが、戦後の復興から目覚ましい発展を遂げています。発展が続くということは、日本も経験した様な消費と廃棄で環境負荷が高騰しているのでしょう。そのため、インフラや教育ベースで環境リサイクルの位置づけを高めていこうという政策は先進的なことと感じます。
同市の市長などは昨年、蔵王工場を視察に訪日していたそうで、今回は政策レベルの視察という段階ですから、かの地でも廃棄物の収集と中間処理、リサイクルと最終処分に関する一気通貫の仕組みや施設づくりが具体化するようです。
あ、せっかくだから、この機に6月の見学会の参加者さんたちの記事を以下にまとめておこう。