「西日本学生ドリフト祭」というイベントが9月5日、奈良県山添村の名阪スポーツランドCコースで開かれるそうなんですが。
インターネットでこんなチームを見つけました。
うわー、見に行きたいけど木曜日だよ。どなたか観戦しに行ってくださる方いらっしゃいませんか?
・・・えっ? 日光サーキット?
25日に開かれたTDA第三戦は、川添哲朗選手が優勝したものの、第一戦を走っていないことから、ポイントランキングでハンガースポーツから出走している2台とは、僅差の第3位にあります。つまり最終戦で川添選手が優勝できても、この2台がポイントに絡んでくると、総合優勝が難しくなるという緊張感が残りました。
今期、後藤誠司選手は一度も出走していないため、川添選手にもエスクードにも負荷がかかっています。
第三戦では、川添選手も珍しく派手目のドライブを展開し、クルマをジャンプさせ着地の衝撃でドライブシャフトの破損を招きました。応急修理のため本番以外はほとんど乗車できない状態からの優勝は、さすがはWESTWINの看板です。しかしエスクードに関してはかなりの満身創痍でもあります。
「出走チームは別なのですが、パジェロミニで走り出している高校生がいて、まだまだ余裕なんか無いんだけれどセンスはいいなあと思える子が出てきました。彼の父親が今回、川添君の車の修理を手伝ってくれています。有望な若手が育ってくれると良いのですが」
島雄司監督は今回、主催者なのでWESTWINの指揮に関与することはできず、大会全体を俯瞰で見ています。恋の浦のサーキット場自体が海外企業に土地買いされ、来季の開催にも課題問題が生じるなど頭が痛いそうですが、大会そのものは充実してきています。
二階堂裕さんがブログにおいてパジェロ生産終了の件を、雑誌への寄稿で綴ったことを書いています。雑誌の方は読んでいませんが、言わんとしていることはスーパースージー誌上でも日頃の雑談でも幾度となく聞かされている「モデルチェンジ時の方向性の見誤り」についてです。
クロカン四駆として効率よく合理的に設計されていたパジェロが終焉を迎えるに至ったのは、その車体構造をモノコックにしたことから。という評論です。
しかしそのことを四輪駆動車専門雑誌以外で力説するとして、門外漢の読者(ばかりではないでしょうけれど)に理解できるのかしらん? とも思います。パジェロユーザーさんには悪いけれど、でかくなりすぎ重くなりすぎ燃費がとにかく良くならない。ついでに言えばシュッとしていたデザインがぬめっとしてきてかっこ悪くなったのと、高い。
一般の顧客層なんて、それ以上のことは考えないでしょう。でも、基本性能の話をするなら、ノーマル同士の両車で同程度の腕前同士がクロカンコースを走ったら、半分くらいのセクションでエスクード(初代)は勝てません。
ここからの展開で、二階堂さんはエスクードについても三代目以降の方向性の見誤りを指摘するのですが、これはたぶん、JB64を産み落とす祭に、スズキに対して行ったコンサルティングで散々モノコックを否定し続けプラットホームの存続に成功したからだと思われます。
エスクードではそれができなかった。「何をどう説明しても、技術陣がその『間違い』を理解してくれなかった」ということでした。
はたしてそうなのか? 僕に言わせれば、エスクードの見誤りはディメンションの拡大くらいのもので、技術陣が構造や駆動方式などの一新をやめなかったことは、クロカン四駆として生きながらえる道が閉ざされるという認識だったからだろうと考えています。その意味では、三代目はまあ、オーバークオリティと言っても良かったほどコストがかかってしまったのです。
四代目はさらにドラスティックな変貌を遂げましたが、ここまでのダウンサイジングが限度でしょう。これ以上小さくしたら、小型車としての意義をも失います。イグニスやX‐BEEがあるけれど、それらはやはりコンパクトコミューターであり、エスクードやS‐Crossとは用途が異なります。予告しても良いと思うけれど、いずれ出てくるジムニーシエラのロングモデルのディメンションこそ、スズキが模索している小型車四駆の理想形になるでしょう。
しかしおそらくそれは、初代エスクードのノマドサイズに極めて近いはずです。
もしも五代目以降が存続するのなら、初代がそうであったように、エスクードは再び小型車ジムニーを苗床にして機会をうかがうという道筋が残されています。四代目は「ブランドを維持していく」という結構重要な役目を担っているのです。やれ売れないとかマイナーだとか言われたところで、廃止されたら元も子もない。生き延びる道をつなぐところに、パジェロとの決定的な違いがあるのです。毎度エスクードを引き合いに出されるなら、回帰への道もぜひ切り拓いていただきたい。
madcrowさんの呼びかけに誘われ、相模川まで出かけてきました。
1月にも現地を走ってはいるのですが、それも併せてクロカンに赴くのは久しぶりです。しかし台風のあとだし現地はどれだけ「自然に還って」いるのやら。折り畳み椅子はともかく、なんぞのときの道具なんてソフトカ―ロープとスタック脱出用プレートしか持ってないんだよ(スコップ背負ってるだろうっ)
この場所に入ってくるルートは四つから五つはありますが、そのほとんどが水没したり崩れたりで、エスクードごとき(笑)では近づかない方が無難。少なくとも僕は単独だったので、独りスタック独り脱出なんか御免です。が、高台に一本だけドライの小路が残っていました。ただし藪漕ぎで、しかも生えているのがイバラ。それでも7台(うちのは撮影場所にあるので写ってない)がこれを通り抜け、四代にわたるエスクードが勢ぞろいです。
その四代目のnewおだてぶたさん、岡山からほぼ日帰り参加。十何年ぶりに再会できました。オフロード? 走りましたよそこそこには。だけどこの炎天下、日暮れまで遊んでいられるようなコンディションではありません。もうみんなで氷水のがぶ飲みです。なんだってそんなところをベースキャンプにしたんだ?って、11時くらいまでは右の土手の茂みで良い木陰だったの。でもそのあとは堰から入っていた風も止んでしまい、昼飯どころではなくなりました。
写真をいただいていないので、BLUEらすかるの距離計の記録を流用していますが、これはうちのエスクードの話ではありません。97年式TD51W、銀色のヘリーハンセン・リミテッドにお乗りの、itoさんのお話です。
もう10年以上前に、このエスクードの存在を知っていました。その当時だったら、僕のエスクードなどまだまだ最長不倒距離には程遠く、itoさんこそが歴代第二位、現役個体だったら文字通りバッケンレコード保持者でした。
そりゃもう「負けてらんねー」(←おばか)の一心で彼を追い越し、今だったらBLUEらすかるの方が先を走っていますけど、50万キロという偉業に到達したのはitoさんの方が早かった。
そのヘリーハンセン・リミテッドが6月、我々にとっては伝説上のノマドが持つ587000キロを乗り越え、60万キロに達していたことを、先日当人から電話で伺い、我がことのように喜んでおります。
モノコックだったら問題ですが、フレームの上にボディがのっかっているんですから、そりゃ軋みますよ。それでも極めて好調だとのことです。このまま地球帰還コースを淡々と走り続けてほしいです。現時点の走行距離こそBLUEらすかるが勝っていますが、itoさんのエスクードは「ボイジャー1号」に匹敵する存在なのです。
この連絡を受けた翌日、山形在住のしろくまさんからも、彼が走らせているTD01Wが507000キロを越えたとエスクードマイレッジに投稿がありました。しろくまさんのエスクードは、現在5基目のG16Aを積んでおり、このエンジンはAMGさんから提供されたものです。450000キロ台で4基目がブローし、それ以前のエンジンも型の異なるG16Aを強引に組み付けECUが合わない状態でしたが、今回は相性が良い組み合わせを得られたようです。
507000キロ。越えられるか越えられないかという伝説の距離には、まだ80000キロもの道のりがあるわけですが、しろくまさんもひとたび走り出すとものすごい行程を征く人なので、なんとか乗り越えて行ってほしいと勝手に背中を押すのです。
そしてもう1台、TA01Wが440000キロ台でエンジンブロー。こちらの動向も心配ですが、皆さんの夏も熱ささ蔓延です。
松田樹利亜が浜田麻里に替わっただけの究極無能芸で、しかも挫折の報。
1年前、エスクードの30年企画に関する書籍計画について何度か触れてきたのですが、このほど結論が出まして、
「メーカーがうんと言わなかったねえ」
企画とはいえビジネスベースですから予算が立たなければ無理な話です。
「20年の時が一番脂がのっていたんでしょう。広報は冷たかったけれど販売促進サイドは便宜を図ってくれたし、僕ら程度のところに雑誌がページを割くから何か書けと言ってきたくらいだったから」
ジムニー50周年という大きなビジネスモデルを目前にしながら、「エスクードの父」はエスクードの企画についても交渉を続けてくれていました。結果は残念ですが、まあこちらもやることやってきたし、プロセスは面白かったから。三回目もやったんだから、もうあとは誰かの仕事でしょ。
「いま皆さんに言ってもあれだけれど、エスクードは、また初代のようなやつを作ってもらいますよ」
それはまた長い回帰線だこと(笑)。今から始めて五代目に間に合うか? 六代目じゃ僕が生きていないかもよ。それでもそういうことなら浜田麻里を引き合いに出している場合じゃない。HOUND DOGあたりを引っ張り出さないと(松田樹利亜の時点で既に若い人にはわかんねーよ)
重ねて言いますが、まだ東北在住の頃ではありません。仕事で理不尽なトラブルを被り、善後策に追われて頭に来ていた僕は、事を片付けた後湾岸の街から帰宅し、晩飯を食って風呂に入って仮眠をして、午前零時に基地を出発しました。
リポートにもあるように、つくばーど基地からだったら、浜松からみちのく荒行をやっていたSIDEKICKさんの走行距離にはとても及ばないのですが、彼のうらやましいところは車中泊であれ時間をかけてツーリングしていること。僕は24時間以内に何食わぬ顔をして基地に帰宅して風呂に入って寝る、という縛りをかけていたので、それができなかったら~別にできなくたってどうってことは無いんですが~理不尽に対する発散もできない、まったくもって愚かな発想の出発だったのです。
当時から、東北のいろいろなルートを一巡りすると、行程はおおむね1500キロ。それを一人で運転するというのは、何度もやってはいますが、それらはやはり宿泊を伴う旅。ただひたすら走って来るなんて、まともに景色も見られないだろうし消耗と回復のタイミングだってどうなるかわからない。だから、とても勧められたものじゃないのですが、でも奨めずにはいられないのも愚かな性根なのです。
まさかその後8年間、東北の道ばかり走らされることになろうとは夢にも思わなかったし、この頃の東北地方は旅に出るところという理想の地でしたから、理不尽に抗う憤怒とはまた別に、勢いもはやる思いも強かったのです。まあこんなバカみたいなツーリングはもうできないです。それだけにね、誰にとは言わないけれど、「やってみ? 面白いから」と言いたくてしょうがない。
10年経つんですが、愚かなところは改善されていません。
昔は7月20日と固定されていた海の日も今では第三月曜日に指定されているので、ことしは7月15日。
月曜日に休めるというのはちょっとありがたいですが、まあだからといって海装備で海岸へ出かけることはなさそうです。というわけでエスクード乗りには珍しくも懐かしい(かどうかはわかりませんが)のをひとつ。
アニメーター、菊地通隆さんの描いたTA01R。菊地さんと言えば別のところではカレラだとかカウンタックだとかに寄り添う美女を(別のところで、ですよ)描いていますが、最も原点に近いところで扱っていたのはエスクードでした。89年式のヘリーハンセン・リミテッドを同年発行のサイバーコミックで出しているところが、超音戦士並みの速さです。が、たぶんメインに描いたのは引っ張ってきた水上バイクの方でしょうね(笑)