Trend-Blue

  ~懲りない傾向~

カーテン、その後。

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多分、前よりマシ。

多分、前よりマシ。

暗くなってから、部屋の電気を点けて外から撮ってみました。
多分、中の様子はそんなに判らないと思います。

なんてったって、前のカーテンの時は食器棚が判ったもん・・・ 

立春前

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setubun二十四節気が一巡する際の基準点とも言える「節分」は、太古の人々には年に4回あったそうですが、新年を迎えて最初の基準日、立春の前日だけに祭事がまとめられ、立夏から立冬まではそれぞれの季節が始まる日という役目に特化しています。二十四節気ですから、季節の変化はさらに細分化しているわけですが、実は節分は基準点であっても節気には当てはまらないという、けっこう不可解な位置づけでもあります。

この日に豆まきをするというのは、厄払いをする宮中行事の名残ですが、これが宮中では追儺あるいは鬼やらいと呼ばれ、その手法が「豆打ち」であったことが由来。邪気の象徴に「鬼」があてがわれています。

が、「鬼」のつく地名のあるところでは、豆まきの対象には「鬼は外」とは言わないところもあり、鬼子母神を祭っているところではまずそんなこと言えない例外もあります。季節の割り当てとしては少々ずれますが、西洋にあっては3月が木々の芽吹きの頃で、農耕の信仰上の重要な節目であったらしいですから、「季節の節目に豆をまく」風習には、宮中行事が出来上がるよりも太古の世界では、どこかに土地神と豊穣への祈願といった概念も混ざっていたのではないかと、以前から考えています。

宮中行事。正しくは祭祀と言いますが、これらはたぶん神事をベースとして培われてきたもの。八百万の神様を相手にしているところへ「鬼」だけ厄介者扱いというのが、正直言うと解せません。なにかしらスケープゴートにされてしまう縦社会の構図が見え隠れするような気がします。

奇異に見え、思えるものには本質を覆い隠してしまう何かがあるのかと言えば、それは受け止めた側の主観が見えるべきものを曇らせてしまったからかもしれません。つい先日も新聞やテレビニュースでばりばりのジェンダー視点の報道が飛び交っていましたが、細胞工学上の大きな研究成果よりも研究室の調度や研究着の変わり種や、機材に貼られたキャラクターシールから導き出す見出しというリポートにもどこか似通ったところがあるように感じます。ただまあ、世知辛い社会に対する脇の甘さが無かったか?とも、拾われた言葉尻からは想像できるのですが。