基地の生垣メンテナンス。 3年目ともなると、枝の密具合も緩和されてきたようで。 (まぁ、夏にも刈ったし) 刈り込みし易くなったと新月サンが言ってました。 準備してたら、たまたま実家の母から電話があって 「何してるのー?」 「今、雷蔵サンとこで植木屋さんしてるー」 「は?」 「正確には生垣の刈り込みのお手伝いね」 「あら、そんな事もやるのね」 「ご依頼があれば(実家も)やるわよーん」 さて。 母からの依頼は来るでしょうか(笑)
八年居たらばもう古巣
この数回、話が前後していますが、整頓すると「エンジン修理できずに引き取り」「宮城と山形に仕事で出かけ」(本日の記事)、「須賀川で」という順序になります。しばらくぶりの仙台だったけれど、コロナ禍で行きつけだった喫茶店が閉店していたらどうしようと心配しながら路地へ入ったら、
「あらーボス! おひさしぶりー」
と相変わらずの朗らかさでママが出迎えてくれて、指定席をすすめてくれました。ご多分に漏れず仙台もあちこちでクラスターが生じ、五月の一か月は開店休業だったそうです。
「見たことあるクルマが裏に置いてあったからもしやと思えば!」
「二年くらいぶりですかー?」
などなど、出勤前にコーヒーを飲みに来る近くのОLやら生保のおばちゃんやら、顔を見ずとも僕の図体ですからすぐわかる(笑)ので、店に入ってくるなり声をかけてくれるのは嬉しいことでした。東京に戻ったとたん、こういった息抜きに立ち寄った喫茶店がことごとく無くなり、コーヒースタンドのような形態に変わっていただけに、ここへ舞い戻ったら古巣のままだったというのは不思議なものです。
午前中、市内で仕事をこなし、午後の山形市の訪問先に移動する途中、しろくまさんとも連絡が取れてほんのわずかに時間再会が叶いました。やはりエスクードが修理中で、奥方のクルマでやってきた彼でしたが、これがマツダにОEМしているハスラーだったという、霰たちのハスラーコミュニティーを後押しするような危険な選択でした。山形市内でしろくまさんに会うのも、震災の年の春以来です。まあその間、彼が茨城に来てくれてましたが。
しろくまさんも出張に出かける途上だったので、クルマを並べて撮影なんて暇もなく、BLUEらすかるの粗品をお渡ししたらば、山形大グッズ(大学で企画したという米の詰め合わせと米沢牛パイ)なんてものをお土産にくださり、わらしべ長者(おいおい)となりましたよ。これで午後の仕事も景気づけられたようなもので、満足のゆく成果を得られ、再び仙台に戻ると、あのジェーエーシーの故・眞野社長の片腕の部長が眞野屋レストランに席をリザーブしてくれていました。
基本はマルシェスタイルの眞野屋ですが、生鮮食料品や雑貨店以外にベーカリー、バー、カフェ、レストランといろいろ詰め込まれている。ただ、グランドオープンの時にはそれら飲食関係の店が開店時間前だったため、どんなしつらえかは知らなかったのです。
コロナ禍で来客も減っている中、それでも買い物にやってくる人はちらほら。座席とテーブルを削ったカフェも閑古鳥にはなっていませんでした。
「あたしゃこれから蔵王で会議なのよ。閉店時間気にしないで社長を忍んでいってね」
とテーブルに案内され、ぽつんと店内を見回すと、例によってあらゆる調度品が廃棄材のリサイクルです。それが眞野社長の信念だったねえと、そこにいてほしいのにもう一緒に仕事のできないことを実感させられました。8年居て、あれからもう9年目の時間でした。