少し前に、会社の前を通る幹線道路の電線と電柱が無くなりました。(ホンの数百メートルの区間だけですけど)
いやー。電線が撤去されて暫く電柱だけが立っていたんだけど、その時は線が無いだけでもスッキリするなと思ったんですが。電柱も無くなった今は、運転してると(片側だけ)視界がサッパリしてますヨ。
少し前に、会社の前を通る幹線道路の電線と電柱が無くなりました。(ホンの数百メートルの区間だけですけど)
いやー。電線が撤去されて暫く電柱だけが立っていたんだけど、その時は線が無いだけでもスッキリするなと思ったんですが。電柱も無くなった今は、運転してると(片側だけ)視界がサッパリしてますヨ。
ジャック・オー・ランタンというキャラクターは、平たく言うと悪霊退散を担うケルトの魔人だと思っていたら、生前堕落していたため死語の世界に行けずにさまよっている魂の姿だとか、悪魔をだまして手に入れた地獄へ落ちないという契約のために、もとより天国へも行けない悪人の死後の姿だったり、そのくせ道に迷った旅人を助けたりという、けっこうあこぎで、それでいて人の好い奴らしいです。しかしアイルランドやスコットランドに残るケルトの風習によれば、こいつの頭はカボチャではなくカブだそうで、カブで作られたこいつの顔はかなりグロテスクで怖い『マスクをした犬神助清さん』のような形相をしています。
いやー、あんなのに夜道の案内をされたらほんと怖いわ。
北米に移住してきたアイルランド人が、アメリカにおいてカブに代わる素材としてカボチャを使い始めたのが、我々のよく知るこいつの顔ということになるらしく、いつのの頃からか『助清さんルック』はどこか憎めないデザインになっいてったのですが、ランタンの部分の起源はウィル・ウィスプと呼ばれる鬼火であり、やはり死後に至っても現世をさまよう魂のことで、こちらは旅人を道に迷わせたり沼に引き込んだりするという厄介な存在です。
そんなさまよえる魂がカブだとかカボチャに憑依してしまうところが、微妙に情けない気もするのですが、百鬼夜行の一翼というのはそういうものなのかもしれません。これが北アフリカだったらユウガオで、ニッポンだったらかんぴょう男が出現するのかも。
とりあえず、お菓子ください。さもないと・・・
マダガスカルジャスミンが、つい先日までガンガン咲いてました。
確かキミ亜熱帯の植物だったよねぇ。えーと・・・花の時期ってこの辺り(南関東)だと真夏だったと思うンですけど(汗)それだけいつまでも暑いって事かしら・・・?
どうしたことか、身売りをしてからの円谷プロダクションには我が目を疑うような出来事をしばしば見てしまうのですが、純金製のウルトラマン像を限定(サイズ違いだと複数)販売という企画には目を覆いたくなる気持ちです。夢を送り続けてきた先の子供たちが、半世紀もすればもういい歳だろうという現実は現実ですけど、歳くったって光の巨人には神々しくあってほしく、それは純金の輝きなんかじゃないのです。
いい歳になってしまうちょっと前に見入っていた同社のテレビCM。こちらの方がよほど夢のコラボレーションをやってくれていました。
60秒に詰め込まれた情報量の多さに「子供は映像のすべてを理解できるんだろうか」と思いながらも、でもこれは1千万といくらかだとかいうくだらないハクの付け方とは裏腹に、円谷プロダクションの財産を活かしていた(ウルトラマンレーシングの企画とスポンサードをやって傾いたってことじゃないよねえ)んじゃないでしょうか。
車検と一緒に色々点検していただこうと、桶川に入院してました。年式のわりに元気(笑)だそうです。
プラグとプラグコードがおNewになったら、エンジンのかかりが良いわ♥
さて。どこ遠出しよっかな~
というタイトルは、石川セリさんの楽曲に由来するものですが、もともとの出典はNHKの少年ドラマシリーズの番組主題歌。新田次郎さんの原作はだいぶ忘れてしまったし、番組のロケは三浦半島で行われていたと記憶しているうえ、この曲のイメージは黄金色に光る夕暮れの海を船がシルエットで行くといったイメージがこびりついている。
けれども、岩手の高台から見下ろす海に、同じものを感じ取ってしまうのが不思議です。沿岸はまだまだ復興どころではないのですが、沖を往く船は震災以前の風景と記憶を呼び覚ましてくれます。
急きょ「つくばーどin岩間ⅩⅩ」を告知しました。
この13年で、これまで最多の開催をもって多方面に多大な迷惑をかけているミーティングなのですが、TD61Wや62WとそのOEMは、2500ccの排気量であり、
「これとエスクード誕生25年をからめて何かやりたいですね」
と耳打ちしてきたあおいろさんのあくまでも誘惑ならぬ提案に、乗ってしまった僕が全て悪うございます。
このV6にして2500というエスクードは、歴代で最初に小型車の枠を超えたモデルで、しかし車体は1600モデルにちょっとだけ架装しただけの、内寸で言ったらテンロクと変わらない「うりゃっと作ってしまった」モデルです。逆説的にみれば、小さな車体に余裕のエンジンを載せているという、仕上げようによってはけっこうなホットモデルになったかもしれない素材なのです。
V6の2000を経て乗り換えてみるとよくわかることですが、回してなんぼと言われていた2000シリーズに対して、そんなに回さなくともちゃんと走る余力があるのです。そこはパワー、トルクともに大きくなっているから当然として、その出力をオンロードにおいてもオフロードにおいても安定的に使えるということは、ツアラーとして楽ちんだし、クロカンの場面でもねばりを発揮できるのです。
61Wでそう感じるんだから、よりオンロードに振っている62Wなんか、かなりいいんだろうなあという話はそのうちするとして、いずれの型式も販売期間が極めて短かった(特に61W)ので、どれくらい集まって来てくれるかが楽しみでもあり、不安でもあります。
まあミーティングの趣旨もさることながら、当日は狼駄さんが久しぶりに焼肉屋を開店してくれるということも吉報。取材の冷やかしも含めて、どうぞ遊びに来てください。
井戸の底へ降りたことのある人は少ないけれど、井戸の底を覗きこんだことのある人は、それよりは多少いるのではないかとふと考え、重力の井戸という言葉は、本当はどちらの人々に対して放つべきものなのかに、言葉の象徴性を感じました。重力を振り切るところまで行った人間は、それこそ井戸の底を覗いた人々よりも少ない。でも、井戸の底に降りたという体験は、その場所から外へ「戻る」という意志と行動も伴っていて、けっこう能動的に思えるのです。
ただし、髪を振り乱していたりお皿を数えていたりというのは、ちょっと遠慮しときますが。
井戸の底の体験は、子供の頃の話で、堕ちたわけではなく掃除の手伝いをさせられたもので、縄梯子で降りて行って、堆積した泥やごみをさらったバケツを、垂らしてもらったロープに括り付けて引き上げという作業でした。
けっこう身軽だったわけです。が、今ではその井戸からはつるべもその後のポンプも外され、蓋がしてあります。今の図体でここに降りるのは極めて危険なので、震災のときにもこの井戸は活用されずじまいでした。
入院生活によって、いくらかは減量もできたわけですが、ベースがベースですから、井戸のことよりも重力のことの方が頭の中をよぎり易く、体重が落ちても筋力が同時に失われていては何にもならないねえと痛感しました。
ようやく本論かい。
1Gという力は入院以前と変わらずに作用している。ただ立っているだけなら、いくらかでも減量したなあという体感は来るのですけど、歩いてみるとなんとなくよろめきがち。作戦室が4階建てながらエレベータのない集合住宅となれば、2月に転落したときとは別の作用で、重力がのしかかるのです。
階段の上り下りは、かなりしんどい。でもこれは体を動かして適度に食って元に戻すしかないようです。
第七章の映像ソフトがようやく発売となり、もう映画とテレビで観ちゃったんだけどここまできたんだから買ってきたわけですが、宇宙戦艦という舞台で戦闘のない最終話というのは、あらためて考えると贅沢な脚本を確保できたということと感じました。それが逆の意味では最後の最後でスカスカ感を払しょくできない部分にもつながりますけど、以前はそのしんみりの最中にデスラーが最後の急襲をかけてきた。
今回それをやったら、まあ彼の株はド下がりになったかもしれません。その辺の差し引きで、大団円はこういうものだろうと納得しました。でも戦いのない最終話と言えば、既に未来少年コナンなんかでもやってはおります。
しかし放射能除去装置よりも難解なコスモリバースという存在が、今後の(決めつけちゃってますが)ヤマトの枷になることは間違いなく、2199の完全新作映画と言い、もうたぶん白色彗星帝国と暗黒星団帝国をミックスして次をやっちゃうだろうという下馬評と言い、この艦の航海はまたしてもぐだぐだの商業路線に行ってしまうのかと、いささか残念ではあります。
それにしても、古代守の魂と引き換えに森雪を蘇生したところで一旦空っぽになってしまったシステムが、おそらく沖田十三の魂を取り込んで再起動したということは、沖田さんの魂と引き換えに地球が蘇生されるという大団円になるのだとすれば、旧シリーズ完結編における「誤診」発言はできなくなるのか。それとも沖田を蘇生させるウルトラCなからくりまでもが考えられているのか。ガミラスの次元潜航艇に乗り組んでいった藪機関士のその後は、などなど、結局「落とし前つけろよーっ」と思ってしまうあたり、僕も術中にはまったようです。
もういいよ、どんだけ作り直しても。虐殺と特攻さえやらなければ。