「風邪だっ」と言って二週間。
未だに咳がでるってのもどうしたものかしら・・・
電話も取れんわ(話してる最中に咽る)
・・・咳をして胸が痛いっていうのは無くなったけど
しばし後、咽喉がゴロゴロいいだすのは勘弁して。
(呼吸器が良くなってない証拠だよねー・・・)
のど飴が手放せませんが、糖分取り過ぎでは・・・
「風邪だっ」と言って二週間。
未だに咳がでるってのもどうしたものかしら・・・
電話も取れんわ(話してる最中に咽る)
・・・咳をして胸が痛いっていうのは無くなったけど
しばし後、咽喉がゴロゴロいいだすのは勘弁して。
(呼吸器が良くなってない証拠だよねー・・・)
のど飴が手放せませんが、糖分取り過ぎでは・・・
飲んだくれでならず者の鍛冶屋のジャックが悪魔をだまくらかして(このくだりは長いので省略)自分の魂を奪わせない約束をしたがために、彼は死後その報いで天国に行けない身の上だから地獄に赴くものの、あの悪魔と再会して「お前の魂は獲らない約束だぜ」と地獄からも追い返されてしまう。ただそのとき、もともと人の好い(人なのか?)悪魔は地獄の炎のかけらを分けてくれたので、ジャックは近くにあった蕪をくりぬいて炎を収め、ランタン代わりにした・・・
ケルトの伝説じゃ蕪だったのに、しかもそのくりぬき方の伝わり方は世にも恐ろしい形をしていたのに、この逸話がアメリカに渡ったら蕪が無かったものだから南瓜で代用されてしまい、ケルトの宗教感も薄れてパーティーグッズへと凋落してしまうのでした。
ところで南瓜はもともと中南米が原産地で、アステカ、マヤ文明の頃には重要食糧であったことが知られています。だけど現在、世界第一位の生産国は中国。種が食材となっています。アメリカは生産国としては第五位くらいですが、彼らは律儀にジャック・オー・ランタンのために観賞用カボチャってのも作っているのです。
わが国にはポルトガルからカンボジア経由で持ち込まれたらしく、かぼちゃ、の語源はそのあたりにあるようです。中南米原産の割には、我が国の生産トップは北海道。中南米でも標高の高い寒冷なところで生まれたのかなあと思ったら、第二位が鹿児島県と、けっこう生命力が高い。でもって日本ではオレンジ色のパンプキンよりも緑色のスクウォッシュの方が一般的ですが、これまた律儀に日本でもジャック・オー・ランタンに緑色の奴は普及していません。
もっと言っちゃえば、すでにアメリカで宗教色が薄れていますから日本でなんてもう初めっからグッズの域。しかも、日本には江戸時代から生産されていた干瓢があるのに、蕪から南瓜へと転じたいきさつを重んじ干瓢で代用する・・・などというユーモアも(栃木県内ではやってますが)一般化はせず、今さらあとへは引けないぞとばかりにオレンジ色の奴らがはびこっているのです。
さてもハロウィン。先日利用したファミリーレストランの洗面所にも居やがりました。が、こいつがいるだけで、普段は何も考えずに手洗いに使っているハンドソープの色が、なんとなく怖くなっちゃうところが不思議です。これ写真に撮ったら濃紺なんですが、肉眼で見たときにはほうれん草でも煮詰めたのか?というほどおどろおどろした濃緑色に見えてたのよ。
グッジョブな飾りつけだぜデニーズ(もちろん褒めてます)
「初恋の日」と「たまごかけごはんの日」が同居している10月30日。朝飯に林檎をかじるか生卵をご飯にかけて食うかを、ちょっと迷っていると、両方出してあげるわよと家内は前日の買い出しで、地元にも出回ってきたシナノスイートと卵のパッケージを入れていきます。なぜ林檎? と言えば「初恋の日」のもとになった島崎藤村の「初恋」という詩の中に林檎が登場してくるからです。制定されたのは後年のことですが、この詩が書かれたのはいまから120年ほど前です。
たまごかけごはんは・・・「日本たまごかけごはん楽会」(島根県)が2005年に制定したものですが、毎年学術民族博物的なシンポジウムが開かれているそうです。早食い大会などもやっているようです。10月30日、78年前のアメリカでは「火星人が攻めてきた」というオーソン・ウェルズのラジオ放送で国中がパニックに陥った史実がありますが、我が家では「宇宙戦争」なんか知ってる家族がいないので、朝飯の献立ばなしでほのぼのと盛り上がるのであります。
機動警察パトレイバーREBOOTの映像特典として収録されている、現監督とかつてのヘッドギアによる座談会。企画の発端が出渕裕さんのところに持ち込まれ、日本アニメ(ーター)見本市にて誰かやる人!というオファーに吉浦康裕監督が手を挙げた。脚本を伊藤和典さん、キャラクター原案をゆうきまさみさんに依頼したら引き受けて、音楽は川井憲次さん。現場は若手の力試し、声優陣はメインからモブまで、山寺宏一さん・林原めぐみさんがたった2人でやってのけた・・・
そしてこの外連味たっぷりのプロモーションは、お客の側に「長編観たいぞ!」という声をあげさせようとする狙いがあるのかもしれません。いやいやもちろん深読みですけど、やっぱりTHE NEXT GENERATIONには納得していないんだよきっと。
蛇足ですが、スズキエスクードとアーリーデイズのパトは共に1988年の生まれ。つまり2018年が30周年。その辺で何か起きる?と思っておこう・・・
機動警察パトレイバーREBOOT。これを劇場まで観に行ってくれた人は、本当に気の良い人々なんだろうと思います。でもみんなこう感じているはず。
ソフトを買ってきた僕もまた、きっと人がよいのです。だからですよ、監督さんは絶対にこの短編で満足していないと期待して、どうにかして長編ものを実現していただきたい。技法や構成を少なくとも30分持たせてなんぼですし、そこに物語も演出も仕込んでいかなくてはならない。この約8分バージョンのままではもったいないです。彼に120分くらいのチャンスを、我に娯楽を!(笑)
宮城県石巻市で繰り広げられてきた大川小学校津波訴訟に対して、仙台地裁は原告である遺族側の主張を大幅に認め、宮城県と石巻に賠償を命じました。東日本大震災において74人の児童が津波に巻き込まれ亡くなった、その犠牲は(学校の)監督上の過失ではないのかという訴訟の、ひとつの結論が出るまでにこれほど長い時間がかかりました。ひとつの、というのは、被告側の控訴が行われるかどうかまだ明らかでないためでもあります。
新北上川河口に近い右岸側の同校で津波の予見可能性 予測できたか否か。
津波到達までの約50分学校にとどまったのは何故か。
15時時30分に新北上大橋のたもとに避難したことの判断ミスの有無(直後の37分に津波が到達)
学校敷地に隣接する裏山に避難が可能だったか否か。
こうした論点で争われた結果、15時30分に石巻市の広報車両が学校付近にて津波来襲と避難広報をしていることで津波は予見できたし、裏山への避難も短時間で可能であったことが指摘されました。
新北上大橋のたもとは、学校校庭よりも嵩の高い場所でしたが、その差はわずか7m。10mの津波に対する避難場所としては適当ではないのですが、ここには「そもそも10mの津波」という災害自体をイメージできなかった不幸も重なります。さらに新北上大橋には、押し寄せる津波が河口からたった4kmの遡上の間に両岸の集落に遭った構造物や樹林をなぎ倒して巻き込み、橋のトラスに引っかかって橋自体がダム化してしまった。その膨大な応力は橋の左岸側のトラスを1ブロック破壊して遡上を続ける一方、児童が避難した右岸側のたもとに一気に溢れ返り、同時に学校一体も水没したのです。
当時現地に何度も足を運んで、そういった状況を知ることができました。第3者の客観視においても、あの地震を体験してなぜ現地にとどまったのかは腑に落ちないの一言に尽きていたのですが、学校自体が災害時の広域避難場所に指定されていたことや、そのため地域住民との情報交換等も行わねばならないと言ったジレンマも抱えていました。
裏山は急斜面で土砂災害の懸念もあり、あの日の天候(夕方から降雪)もあわせて低学年児童に避難は不可能と学校や石巻市は主張していました。しかし、橋のたもとからは裏山の裏側を舗装の県道も通っており、この道路を使えば裏山の雑木林でなくとも、より高台に移動できたはずでした。
あの年の3月、新北上川は津波の日の夜から地場の建設業者が濁流につかりながら土のうを積み上げ、2日かそこらで緊急復旧を行いました。よくメディアに映る自衛隊は、その啓開された道があればこそ被災地に乗り込むことができたのです。まあそこは僕も同じでした。左岸のようやく通れる堤防上の道を寸断された橋まで来ると、対岸側のトラスが500m以上、上流に投げ出されて水没しており、越流と決壊によって堤防の内側(堤防というのは川に面している側が外、隔てられた陸が内)も川とも沼とも言えない状態で、国土交通省がかき集めた数十台のポンプ車が越流した水を川に戻していました。
その堤防の土手に、沢山のランドセルが泥を落としてもらって並んでいる光景は忘れられません。遺族の方々の中には自ら重機の免許をとり機材を調達して、この何年もの間、自力で捜索を続けていらっしゃいました。だから、この訴訟は賠償がどうとか責任の所在がこうとかの領分ではない、何かを訴え縋らずには前に踏み出せない性質の、どこか争いでもない対話の場だったのだと思います。
すべて結果論の世界ですが、同時刻に「釜石の奇跡」と呼ばれるようになる、岩手県釜石市の小中学生たちの自主避難行動とはあまりにも明暗の分かれた悲劇。まさか、よもやと脳裏によぎるものを持ちながらも現場の判断ができなかったことがすべての始まりであり、教訓になるのだと感じます。しかし大川小学校が遺構として残されたとして、新北上大橋は現状復旧されたトラス橋のままです。右岸の同地に人は住まなくなるでしょうけれど、次の津波でも同じ越流が起こるでしょう。
ふぅを診察してもらった動物病院の駐車場にて。
・・・首輪してるから、近所の猫さんだな。
身近にいない色味だわ、グレーの縞模様って。
可愛いーと、写真を新月サンに見せたら
「いいんだよ、増やしても」
と、脅され(ぉぃ)ました。
いやいやいや。病弱婆にゃで手一杯ですだよ。
奇しくも二人とも、V6ノマドの中でもベストセラーに属する95年式ゴールドウインからの乗り換えとなりました。kawaさんは直4‐2000のTD54W(写真上)、s.DoさんはV6‐2700のTD94W(写真下)
偶然にもほとんど同じタイミングで、それぞれ「たまたまそこに出ていた」という巡り合わせだそうです。乗り換えの選択肢なら他にも沢山あったことでしょうに、エスクードからエスクードにスイッチ。しかも二人同時に、というまさしく「数奇な」(こらこら)決断には脱帽です。
ひとたび走り出すと600でも700でもキロ数を出していた弾丸ノマドからの54W。昔取った杵柄だったらライトウエートスポーツで韋駄天だった出自が絶対に飛ばさないドライビングに変わり、トルクの細いV6‐2000で燃費レースの上位に食い込む軽巡ノマドからの94W。この2台がどんな走りを見せてくれるのかが楽しみです。
どうも、眠くなると抱っこしてほしいらしい。
膝の辺りでスリスリ。のち、伸びあがって抱っこの要求。さすがに片手で4kgオーバーを支えてご飯は食べられん。
いつぞやのにゃんこスリングは解体して洗ってしまいましたので、前に使っていた布のカバンに押し込めてみたら意外にも気に入った模様。
いち。前世はカンガルー??
盛岡市内にちょっと奇妙なハンバーグレストランの看板を出す店があることは、そこを通りかかって知っていました。なぜかにこにこしたドアマンらしき紳士が佇んでいるのも見かけたことがあります。でも通りかかっただけで立ち寄ったことが無かった。
それが、知らないことの恥。
先日、再びそこを通りかかったとき、ざざっと雨が降ってきて、こりゃいかんとその店に飛び込んだのです。あれ?あのドアマンはいなかった。
それにしても界隈の飲食店が11時からというなか、10時過ぎに入店できるレストランとはありがたい。しかし入るや否や「テーブル席にしますか、座敷にしますか?」って、なにそれ座敷?? 盛岡ってときどき不思議なところだなあと、ちょっと覗かせてもらったら二階にほんとに座敷があるではありませんか。
不思議というより、変だっ(良い意味で、です)
そこは遠慮して階下のテーブル席に座った途端、テーブルに見覚えのある衝立のようなお品書き板が建てかけられ、おいっ? ここはっ・・・
知らなかったのですよ。この「ベル」という店が、あの「びっくりドンキー」発祥の、70年代から操業している1号店ともいうべきレストランであったことを。ドアマンの紳士は初代の店長で、昨年いっぱいで引退されたのだとか。
うわー、知らずに通り過ぎていた自分はなんだかとっても損をしたような気分になりましたよ。勉強させていただきましたですよ。