友達が出演するって聞いたので、鑑賞しに出かけてきました。
とある企業の吹奏楽部の定期演奏会です。(友人は賛助出演)平均年齢が高めのせいなのか、それともこの楽団のカラーなのか。スターウォーズのメドレーが迫力に欠けたのは残念だわ。決して演奏が下手なワケじゃないんですよ。なーんて、やりもしないくせに講釈たれる夫婦であった(爆)
もう毎日毎日やたらと検索して探してくる人が多くて、だけど知りたいことなど一行も書いていないのが申し訳なさ過ぎて、だったら検索に引っかかるキーワードを無くしてしまえと思い至ったのが遅すぎでしょうか。
謎のプロジェクトと言えばね、一昨年のこの頃(2012年10月のことです)、
こんなことを仕込んでおりました。2013年がスズキエスクードのデビュー25周年だったので、20周年のときほどではないにしろ何かやりますかと、無い知恵を絞ってやっていたわけですが、沢山のユーザーさんが参加して下さった20周年に比べると、実働できるスタッフはほとんどいない手弁当状態だったので、ほんとにたいしたことができていません。12年の10月時点ではまだ伏せられているのですが、何か変わったことが出来たかと言えば、二階堂裕さんと尾上茂さんのエスクード対談を実現させたことくらいです。
二階堂さんはご存じのように日本ジムニークラブの会長ですが、現役のスズキ社員時代にエスクードの商品企画を立案しリードした生みの親。尾上さんはそのエスクードでオーストラリアンサファリやパリ・ダカールラリーを走った育ての親です。記憶をたどって知りうる限りで、この2人の言わばジムニーだったら知らない人はいない組み合わせで、エスクード談義を展開した媒体は一つもないはずで、まあニッチ中のニッチな企画ではありました。パリ・ダカールラリーに関しては、尾上さんご自身も著書を持っていますが、あれに書かれていないエピソードがどんどん繰り出されるのは、取材していて面白いことこの上ない時間でした。
しかしあれやっちゃったら、30周年で残していることってもう無いんじゃないかと、大いに困惑するんだけれど、これを書き直している現在は2014年でまだその日には4年もあるのよ。2015年にはがらりとコンセプトを変えても形だけは似ているかもしれない新機軸が出てくるらしいですが、モデルが存続するなら30周年はそっちに引っ張られるし、無くなっちゃうならこれまでユーザーさんが走ってきた軌跡を記録する手もあるかなと目論んでいます。というわけで、次にくるであろう「謎のプロジェクト」はやっている張本人にもいったいどうなるのかさっぱり分からない謎だらけなのです。
九州ジャンボリーという二輪と四輪合同イベント(九州においてはどちらかというと二輪イベントの方が賑わっている)行事の一環として開かれた、JXCD。われらがTeamWESTWINもこれに参戦しましたが・・・
後藤選手はベアリング破損に伴うドライブシャフト脱落によって、予選中のリタイア。うーん、ことしはなかなか勝機に恵まれません。というわけで、過去最短に締めくくられる本稿でした。来月のTDA最終戦、頑張ってくれっ。
レースのダイジェストは諦めるとして、今回、TeamWESTWIN連合軍として参戦した、パジェロディーゼルの中村選手が、話題としてはWESTWINのお株を奪うひとコマがあったと、島監督の談。
「恋の浦のコースに到着したらですね、誰のものかわからないパジェロJrが置いてあるわけです。で、しばらくすると中村くんがディーゼルでやってきて、Jrの隣に駐車するんですよ。なにをやってるんだと聞いたら、昨夜のうちにジュニアを搬入しておいた。と」
なんと、中村選手はNクラスにディーゼル、P1、2クラスにJrをエントリーさせるという、前回のTDAでの川添選手と同じ作戦を立ててきたのです。結果としてはディーゼルでは二位、Jrは表彰台外に終わったようですが、何かやるWESTWINのカラーを遺憾なく発揮したのであります。
ところで川添選手はどうしたのかというと、スケジュールがかぶってしまった地元のマラソン大会に駆り出され、自分の足で走っていたらしいです。ダートラにおけるクレバーな走りの原点は、マラソンランナーとしての資質からくるものだったのか。
「そうそう。その川添くんを千葉の大会で負かしたNISラッシュオートの緑川英之さんを覚えていますか? 今回、久しぶりにお会いしたんですけど、面白い話を聞かされましたよ」
お? その車は退役となったと聞いたし、そのリザルトはこの車の最後の戦歴なのでは? と思ったら、
「今度は屋根付きの01Wが登場したようですよ。この話には、うちの連中も目を輝かせていました」
ほー・・・
本日、恋の浦にて開催されるJXCDに、後藤誠司選手の出走が決まり、久しぶりに慌ただしくなっているTeam WESTWIN。四駆はかっこいいほうがいい、という監督の信念を色々な意味で受け継いだ後藤選手のエスクードは、今シーズンから再び巨大なリアウイングを取り付けていまして、以前のようなバタつきが起こらないように、補強ステーも増設されました。
まるでスポーツブラの背中。って言ったら、、本人泣いてました。
JXCD今回の見どころは、日頃はライバル同士で競い合っているパジェロディーゼルの中村選手、パジェロエボの廣瀬選手が、Team WESTWIN連合軍として参戦することです。個人戦としては変わらずライバルであるとしても、これはもう最強のチームじゃないですか。
レースの結果は追々まとめるとして、ことしの活動もあとはTDAの最終戦に臨むと、ストーブリーグが巡ってきます。彼らの来季のシートはどうなるのかというと、打倒後藤の英才教育を受けているかどうか定かでありませんが、気持ちだけはそうらしい、島監督のお嬢さんが免許を取得する(これからだよね?)シーズン。
彼女がレースを「走る」と宣言した時点で、後藤選手のエスクードが剥奪される・・・場合もある・・・かもしれないという、それってけっこう面白い展開じゃないか。な、シナリオがあります。ひょっとすると、今季の川添哲郎選手が乗り換えるやいなやの破竹の連勝に及んでいるのは、自ら来季のシートの防衛意識を働かせてのことかもしれません(んなわけないって)
いずれにしても、その流れによって、Team WESTWINにはまた、新しい競技車両の必要性が浮かんでくるのですが、ここへ来て島監督自身が重大な発言をしたのです。
「うちはまだ、ひとつだけ勝てていないレースがあるんです。これをなんとかせにゃならんとです」
福岡市内の洋食屋さんでモツ鍋をつつきながら出てきたこの宣言に、チームスタッフは誰もが驚き、そして盛り上がりを三倍にするのです。
XCダート。耐久レースです。過去に後藤・川添ペアがパジェロミニ耐久仕様で参戦し、台風の目となる二着を獲得して以来、現役引退した監督が復帰しようとすればマシントラブルか、リタイアを喫している、あれです。しかも先日チームを訪問した時に至っては、
「歓迎の準備で明日XCがあることを忘れてました」
というくらい縁遠くなっていた、いやほんとは使える車両がなくて見送った耐久レースへの参戦です。しかしそうなると、耐久用の車両が実際に必要になってくる。ここから二次会が流れるまで、喧々諤々の検討会議が繰り広げられました。
「出るからには勝たねばいかん。しかも周囲にあっと言わせるかっこいいマシンで走らねばならん」
という監督の理念で、最終的には車両決定したのですが、上がった候補がパジェロ・エボから三代目エスクードのショート、監督秘蔵の4インチリフトなキャリイに至るまで、酔っ払っているからなんでもありです。
その中から選定されたのは、TA01W。もう義理堅いのかあほなのか(おいっ)律儀すぎて涙が出てきますが、テンロク初代のショートも1から7型まである。選んでくることが可能なのか、それを探し出せるのかが困難な時代。ただ、常用ではなくレース用としての車両なので、中古の程度はさほど考慮しなくてもいいのかもしれません。それを前提に、可能ならこの型を、という助言をさせていただきましたが、丑三つ時近くの対話だったので、みんなが覚えてくれているかどうか・・・
という成り行きで、来季のTeam WESTWINは、さらに賑やかになりそうです。
サイトの方では登場している写真ですが、89年の初夏、TA01WとJA71が並ぶ撮影。それまでジムニー派であった自分がコペルニクス転回を図った出来事でしたが、2台並べると全く同じ車体色。つまりヘリーハンセン・リミテッドなどと言ってましたが、塗装は軽自動車のそれをわけてもらっての仕上がりなのでした。
それでも、このインビエルノブルー・メタリックという色は、24年にわたる歴代エスクードのなかで、同年式のゴールドウイン・リミテッドにあった赤とともに、一度きりしか使われていなかった珍しい試みでもありました。
ジムニーの時には意識していませんでしたが、空色、という言葉を初めて連想させたのが、このエスクード。後に出てくるマイアミブルーメタリックⅡの方が、より近いイメージとなりますが、空色というのは、童話作家のあまんきみこさんが60年代に書いた「車の色は空の色」に由来するものです。
この系統の車体色は、あと2回ほどのヘリーハンセン・リミテッドと、2型に投入されただけで、エスクードのカラーリングはどんどんシックな方向にまとまっていきます。ラジアントレッドマイカが最終型まで存在したことも、評価すべき部分と思います。あっという間に消えたものの、三代目の1型に、初代の限定車以来のソリッドカラーの赤がラインナップされたことは、非常に英断な出来事でした。
ひるがえって89年。エスクードの車体色はスペリアホワイト、ダークブルーメタリック、チャコールグレーメタリックの3種類しかなかった。ここへヘリーハンセン・リミテッドが限定ながら投入された僅かな時間だけ、ネプチューンダークブルーとともにこの空色が加わり、5色を選択できる瞬間があったのです。そこから先は主観の世界ですが、どれを選ぼうとするか。
僕はエスクードの入口で、迷わず空色を選んだのです。
遊びほうけの80年代、言うほどに遊んでいられるほど裕福ではなく、週末の燃料代のためにパンの耳で一週間乗り切る給料日前、なんてことを経験しました。そんなもの美談にも美徳にもなりはしませんが、体型だけは細かった(ちくしょー)。そういう時代ですから、今のようにいつでもどこでも写真が撮れるはずもない。
フィルム代や現像・焼付代にお金を回すことができない。だから四駆として最初に乗った中古のSJ30は、なにも記録が残せていません。さらに輪をかけて、乗り方も運転も下手くそでした。
SJ30はあっという間にピストンの吹き抜けによって痛恨のブロー。でも四駆の面白さから懲りもせずにJA71を新車で買い求め、貧困に鋼鉄の輪がかかるのでした。だから改造資金なんかありませんので、カタログ仕様のまま。後年、リアシートを撤去してスカイラインか何かの助手席シートをくくりつけた三人乗りにしていましたが、パノラミッくルーフなので、後席の居住性は良くなっていました。
これが87年のことですから、僕がエスクードに乗り換えるまで、思いのほか短かったのだと、あらためて感じました。それを意識してこなかったのは、厳密には乗り換えではなく、71をセカンドに置いて過ごしていたからでしょう。そしてお気づきのように、この71は、カタログモデルですがこの色。インビエルノ・ブルーメタリックだったことが、2年後のインパクトにつながっていきます。
人生2台のジムニーは・・・といいつつ、基地には親父が乗っている7型のJB23があるのですが・・・数年の付き合いで終わりました。なんぼ優れた世界唯一のマイクロ四駆であろうが、僕はエスクードに傾倒したので、いまさらジムニーを語る資格も舌も持っていません。それでいながら、遡るとこの空色があって、以来、所有した全てのエスクードが青系だというのも、何かの因果かもしれません。
この71、その後我が家でノマドを買い足した折に一度里子に出ますが、その里子の先でJB23(3型)が導入され、引き取ってきたらひどいオイル管理でヘロヘロでした。ちょっと状態が心配でしたがオイル交換の後、これに乗ってくれたのが、幌車のエスクード(ウエストウインの島さんが乗り継ぐ)を降りてセルボに乗っていたシン大尉こと狼駄さん。彼にとっても二度目の71だったそうで、彼がプロシードレバンテを手に入れるまで活躍してくれました。