その土地の法規には従わねばならない。オーストラリア然り、ロシア然り。スペアタイヤがなかったら話にならんだろう、と定められていれば、5型にもちゃんと、規格サイズのスペアタイヤを背負わせるのです。日本じゃ日本なりの事情に従ってのことだそうですから、泣けてきます。モスクワショーの公開モデルを見るだに、そういうもんかいと思わされます。
国土交通省と経済産業省、なんとかしなさいよ。
その土地の法規には従わねばならない。オーストラリア然り、ロシア然り。スペアタイヤがなかったら話にならんだろう、と定められていれば、5型にもちゃんと、規格サイズのスペアタイヤを背負わせるのです。日本じゃ日本なりの事情に従ってのことだそうですから、泣けてきます。モスクワショーの公開モデルを見るだに、そういうもんかいと思わされます。
国土交通省と経済産業省、なんとかしなさいよ。
5型のエスクードのカタログには、少年を冒険に誘う父親の図式といったスチルが使われています。まるで昔のハムのCMを彷彿とさせるイメージですが、まさか今現在のエディターが、当時の「わんぱくでもいい・・・」の、あれを参考にしたわけではないだろうと思いますけど、逆説的に言ったらその頃と何一つものの考え方が変わっていないステレオタイプな構図でしかありません。
一方、クロスアドベンチャーの方だと、若者の男女で構成しており、ターゲットをより若い世代に変えていることは伺えます。
しかしなんだね、独身ならいざ知らず、所帯持ちの新車購入時に、奥方だとか母親だとかの姿を微塵も見せない、君は留守番してなさいと言わんばかりのカタログというのは、やはり顧客不在の発想です。いや別に家庭内でのおとーちゃんの決定権が強く復権していれば問題ないんでしょうけどね。
ところがです。オージーの発想はそうでもない。スズキ・オーストラリアのグランドビターラは、親子3人と、ペットの豚(ぶ・・・ぶた?)が、5型を使い倒しているのです。いやー、どこらへんまでウソついているんだ? とは思うものの、こっちのほうがずっと微笑ましいし、笑って許せるじゃありませんか。以前、よそのメーカーのクルマが冒険テイストと道具感覚を前面に押し出したCFでうまくいってましたが、そういうのはよそでやってもらっていればいいんだよなーと感じるし、4型で肩すかしをくらわしたインディー・ジョーンズのような宣伝投資よりも絶対にこっちの方が良いです。
世の中結果がすべてだと言われちゃうと、もう言い返す言葉もなにもありませんけど、1台の利益がジムニー3台分だというのなら、登録車の販売はもそっと力を入れてもいいのではないか。しかしこのご時勢に趣味性丸出しの四駆が売れるのか?と、エスクードは変哲のないSUVへと偽装を施したように見えます。
今や海外でも売れていないらしい苦境の中で、売れないという先入観を払拭するのは至難の業だと、確かに思わされる話です。しかし、趣味性丸出しという車は本当に売れないのか? とも、逆説的に考えたくなります。
結論から言ってしまうと、たぶん、売れないという先入観が先に出ている。そこをはったりでもなんでもかませて攻勢に出ることは必要だろうと。エスクードに関して言えば、一番やらなくてはならないことは、宣伝費用にコストカットを続けるスタイルを、いっぺんやめることだと思います。
何がだめかって、あのへたくそなコピーとCG全開のカタログを刷新すべきで、それこそ竜洋の砂浜でもいいから実車のスチルを前面に出さなくては、伝わるものも伝わらないでしょう。さらにはもうひとり分の人件費を捻出して、おとーちゃんと息子だけでなく、その横におかーちゃんの姿も登場させなかったら、新車を買おうかという家族会議の席で、家計を管理する立場の奥方様を説得できる材料にだってなりはしません。
もうひとつは、バブル景気というだけではなく、初代がブレイクしていく流れがあったこと。アピオがオーストラリアンサファリでクラス優勝を遂げ、そのレースシーンが当時の四駆雑誌の付録カレンダーに使われ、呼応して販売宣伝広告にも採用されてからです。広告塔となる実績か、あるいは耳目を引きつける実車があるべきなのです。
いまさらダカールラリーやらどこぞのヒルクライムに出て行けと言う気はありませんが、たとえばその昔、スターリング・モスがフロンテSSを走らせたアウトストラーダ・デルソルでの長時間試験走行のような企画に、「あれ? 見たことないぞそんなグランドビターラ」というようなカスタム仕様と、カタログモデルを同時に登場させるのもありだと思います。どうせなら、イタリア国内だけでなく、五大陸全部キャラバンする。誰にやらせるんだという部分は、全国のアリーナ店から社員を募って、これを遂行する。別にプロレーサーやタレント、ましてやインディー・ジョーンズなんか起用する必要はないのです。
「なんだそりゃ?」という興味や好奇心、ワクワクさせるようなものを、今のエスクードの宣伝ではまだやっていない。カタログが謳っているほどに、冒険は近いところに置かれていないのではないかと思うのです。
11月22日、追記。最近流れ始めたスバルフォレスターのCMを見て、吹き出しちゃいましたよ。一年間で五大陸10万キロ走らせるって。なんだそりゃ?
僕は手塚治虫さんの漫画をそれほど好きではなく、「ジャングル大帝」と「青いトリトン」を除くと、作品をしみじみと読んだことはありません。
だから「火の鳥」に至っては、何がどうなっているのかほとんど知らないのですが、1978年に公開された東宝映画の「黎明編」だけは、学校行事の映画鑑賞会で強制的に連れて行かれて、観ていました。
そこでも、火の鳥の物語としてではなく、邪馬台国の騒動(と、同国九州説をバックボーンとするフィクションの構成)に面白さを見出して観ていたのです。
映画は日本各地の様々な場所でロケ撮影されたと思われますが、その多くは、阿蘇において撮られていたはずです。その雄大な風景を、いつか眺めてみたいと思いながら、その後他力本願していた修学旅行に肩すかしを食わされ北海道に飛ばされ、なにしろめんどくさがりがたたって自走では行こうとしない(他の手段を考えろよ)
結果、ここまでやってくるのにン十年もかかってしまいました。しかも弾丸のタッチアンドゴーという、えらくもったいない立ち寄り。まあそれでも、その場所を走ってこられただけでも良かったことは大いによかったのですが。
翻って記憶を搾り出す「火の鳥 黎明編」。なんと、今では映像ソフトが無いらしく、リピートしたくてもできないらしい。その上、調べてみると、この映画に対する評は極めて低く、なんであんなもん作ったか理解できないというコメントが大半。良かったのはミシェル・ルグランのメインテーマと、コシノ・ジュンコの衣装くらいだと・・・
確かに記憶をたどれば、原作を知らないにせよ構成がちぐはぐだったり怒鳴り散らすようなオーバーアクションが鼻についたり、虫プロ側が担当した無理やりなアニメーションシーンの意味もない・・・としか思えないインサートなど、あんなのをよくもまあ谷川俊太郎さんは脚本に起こし、メガホンを執った市川崑さんに納得させたもんだわ。とは感じるものがあります。
ところが、原作を読んじゃいないけれども、失礼ながら当時のセンスで漫画を映画にすると、あんなもんじゃなかろうかと思うのです。そこは目をつむって(つむったら見えないからダメじゃないか?)、当時のあのキャストを思い返すと、とんでもなく豪華で、現在の俳優陣であれに匹敵することができるだろうかと考え込んでしまいます。今やったら女性陣の大半になんとかなんたらのアイドル軍勢がぞーろぞろと・・・それじゃだめだよなあ。
いやしかし、この素材は、もう一回取り上げてもいいじゃねーかと、僕は支持したい。役者の選定は好みによるのでほっときますが、あっちの国で「ロード・オブ・ザ・リング」(注意 音声がやかましいぞ)だの「太王四神記」(注意 音声がうるさいぞ)だの「レッドクリフ」だのを作られて、こっちじゃあんなのやそんなのしか作れないようでは、邦画の名折れじゃありませんか。
本音を言えば、別に「火の鳥」である必要はなくて、邪馬台国であるとか日本神話であるとかのジャンルで、物語を見たいだけなのかもしれませんが、「ヤマトタケルの冒険」を実写でやれちゃうとちょっとインモラルすぎなので、あれは長編漫画にリメイクしてもらうのが一番いいし、第一、アニメーションで見たいとは思わないのが、実際の阿蘇の火の国の風景です。
先日の熊本行きで、だんご班長さんと共に初めてお会いしたエスクードユーザーの、ニケさん。二代目のFISリミテッドに、B.F.グッドリッチのマッドテレーンを履かせているという、履かせているだけでなくダートや林道には果敢に走り出す、元気な青年です。
このエスクードに触発されて、彼のお父さんもエスクードを手に入れて乗り回しているそうで、久しぶりに10年か20年遡るような、往時のエスクード乗りによく見受けられたものと同じ、スピリットの塊を見せてもらった気がします。
それは、一度はエスクード(二代目)を手放しても、意を決して現在のノマドで復帰しただんご班長さんや、クロニクルのために貴重なディーゼルの二代目を鹿児島から茨城までフェリーと自走で持ち込んでくれたり、三代目に乗り換えたあとも再び同じ経路で披露しに来てくれたしんいちさん、同行してくださった方々も同じなのですが、ニケさんの何気ない一言が、ふと印象的に耳に触れたのでした。
「今月末の南阿蘇ピースライドには、我々は参加しないんですか」
熊本で行われているピースライドというのは、全国的にも所々で行われている、バイクツーリング中に車種やグループ、個人の分け隔てなく、ピースサインで挨拶しようというもの。集合場所を決めてのミーティングなどもあるらしいです。だんごはんちょうさんもニケさんも、エスクードだけでなくバイクに乗っているのです。
「こっちではそういうのが盛んなんだ? エスクードがデビューした頃は、僕らもエスクード自体が珍しかったから、出かけた先ですれ違う時は手を振って挨拶していたねえ」
「えっ、ホントですか! エスクート゜同士でですか?」
「そうだよー。波長が合いそうと思ったら、留まっているエスクードのオーナーさんのところに行って、どこから来たですか、とか声もかけていた」
「うわー、それいいなあ。俺もやっちゃおうかなー」
ここ。この楽しそうなリアクションが、とても印象的で、そして嬉しかったのです。
もともとが、エスクードを最初に買った頃、僕はインターネット環境を有していなかったから(平成元年、ネット環境を持っていた人は相対的に少なかったんじゃないか?)、コミュニケーションの手段は現場でしかありえなかったのです。それだって、そのことがきっかけとなって交流の続いている人はいないのですが、現在のファーストコンタクトの相当な部分がインターネットに依存している時代よりも、ドキドキ感と面白さはあったように記憶しています。
実際、今回僕はマツダロードスターで移動し、そりゃもうどこの馬の骨かもわからない風来坊で、彼らのあとについて走っていても、それがひとつのグループになんか見えなかったでしょう。大津の道の駅から始まって阿蘇の半分くらいをぐるっと回ってくる間、オープンスタイルのクルマとはいくらでも出会っていますが、「やあ」とサインを送ってくれた同種のクルマは、1台もありません。カルデラの底へ降りる途中、トレッキングに来ていた女子高生のジャージ集団だけが、だんご班長さんから僕までのそれぞれのクルマに手を振ってくれただけでした(前回も書きましたが、おじさんもう思わず手を振り返しちゃったよ)
このエスクード黎明期のエピソードを聞いてくれて、楽しそうな顔をしてくれたニケさんには、僕もまた嬉しいことだねえと思いました。ニケさんがそれを実行してくれたとして、リアクションしてくれる人がどれだけいるかは、期待することはできませんが、なによりニケさんが聞き流すことなく受け止めてくれただけでも、良かったと。
1959年9月12日、旧ソビエト連邦によって打ち上げられたルナ2号は、ルナ1号によって発見されていた太陽風の確認観測のあと、33時間半の飛行を終えて月面に到達し、「晴れの海」の西側あたりに衝突しました。
無人の飛行体だとこれほど速く月に行ってしまうわけですが、この9月14日のルナ2号月激突(到達自体は13日)が、宇宙船という枠組みでは人類初と言ってもいいかもしれません。しかし宇宙船の定義って無人でもいいのか。はやぶさのような探査機扱いではないのですね。
無人なら1日とちょっと。有人でも数日で到達できる月面も、エスクードで走ろうとするとけっこう大変な年月を要しますが、やってやれないことはなく、既に何台かの到達例があるのはご周知の通り。そして、月ロケットが多段式であることを考えれば、2台以上を乗り継いで38万4400キロを走り抜いても、良いではないかと思うわけです。
すると、月に到達している人、もう少しで到達しそうな人は、こんなにいらっしゃる。
コムロさん 526,000km3台
kawaさん 499,000km2台
itoさん 433,206km✩
たけちんさん 423,000km2台
Maroさん 411,901km3台
NONNONさん387,004km4台
はらたぬきさん384,247km2台
しろくまさん 380,000km✩
あおいろさん 377,000km3台
とにぃさん 377,000km4台
Daiちゃん 358,100km2台
ゆっくリズムさん353,480km2台
雅 右京さん 334,000km3台
あきさん 333,000km2台
TA01Wさん 330,000km2台
BenyaminFFさん 328,000km✩
suuuさん 316,572km2台
パジェケンさん 313,000km2台
千夜さん 306,000km✩
✩印は、たった1台でこの距離を刻んでいる現役個体です。これはなんといってもすごいことです。複数台の人の中にも、そのうちの1台が同様の距離を有していた事例があります。さらには、現時点で更新されていないものもあるため、これらの距離はもっと伸びているものと思われます。
残念ながらすべてのエスクードが退役してしまった人たちも、これだけ走っていました。
yoneさん 377,000km2台
シン大尉 345,279km3台
たかべーさん 344,000km2台
こばぁさん 323,768km2台
師匠さん 304,000km2台
なんであれ、こつこつと積み上げていくことって、いつか何かの成果を得るということですね。
モンゴル人民共和国のヘンテイ県ベルフ市の10キロほど南に、1機のホーカーシドレー・トライデントが墜落し、操縦士や搭乗者9人全てが犠牲になったという、歴史的な事件があります。1971年の、9月13日の出来事です。
この飛行機に搭乗していたのは、当時の中華人民共和国で毛沢東の後継者とまで言われながら、主席の暗殺を企てクーデターを起こしかけたものの失敗し、ソ連に逃亡しようとしていた、軍人であり政治家であった林彪。最年少で十大元帥の一人に名を連ねたほどの人物でした。
トライデントの墜落原因は諸説あるものの、確たる定説は断定されていないようです。また、搭乗者の遺体確認は、モンゴル側が中国に対してこれを認めなかったことからKGBにより行われたもので、どこかに穴があっても・・・という憶測は成り立ちます。毛沢東さん自身がこの逃亡に対して「雨は降るものだし娘は嫁に行くものだ」と告げ、ほっとけと言ったそうですから、事故後の成り行きは闇に葬られて行っても仕方のないことでしょう。
という背景から10年ほどあとに、川又千秋さんが「林彪の罠」という活劇小説を出版します。現在では「筑波・核戦略都市を奪回せよ」と改題された文庫本が手に入るかもしれません。なんだそりゃー?という小説と思われましょうが、筑波研究学園都市が、一時期、核武装のための研究基地という都市伝説で賑わっていた頃の作品です。実は、モンゴルで果てたと思われていた林彪さんは筑波に軟禁されていて、中国から謎の武装集団が奪還にやってきて、高エネルギー物理学研究所(当時)を占拠し、日本政府に脅しをかけるという展開。
この頃、僕はといえば、夜な夜な師匠と学園都市を徘徊しては変なテロリストを発見できず、そのまま北筑波稜線のまだダートであった林道まで出かけて崖から落ちかけたりしていたのですが、30年経過したら筑波どころか尖閣諸島あたりでの鍔迫り合いというずっとリアルな現実を見る時代になってしまいました。
いま、つくば、と表記する人はいても、筑波と書く人は激減しているのではないか。ましてや「学園」と言われて、そこが筑波のことを示していることを知らない世代も出てきています。それほどに筑波研究学園都市は地域に埋もれてしまったような気がします。土研の風洞実験棟の中に核ミサイルが寝そべっていても(真実は知りませんよ)、もはや誰も気がつかない以前の問題なのか。
「島さーん、そっちで使う足がほしいんですけど。レンタル料金は用意しますから」
「いいですよー。何をご所望ですか?」
「そりゃあなた、僕がエスクード以外のクルマに乗ると思いますか?」
「ですよね、了解です」
という対話があったのは本当のことですが、そんな、90年代ならいざ知らず、いまどきエスクードのレンタカーがあるわけないのです(書いててすげー哀しい)
それはこのやりとりのときにも予想しており、まさかエスクードなんか出てこないだろうから、そのときは何にするかを決めてありました。
かくして、レンタカーの営業所に行ってみると、そこにエスクードが用意されているはずもなく、第二候補でお願いしていた、マツダロードスターが待ち受けておりました。
なぜロードスターなのか。これは、ちょっとした故事に由来します(故事、なんて大昔みたいな言い方したら怒られっかな?)
それはさておき、このNC型は、7月にマイナーチェンジしたあとの最新バージョンでした。阿蘇往復でも沢山のロードスターを見かけましたが、俺みたいなのがこんな新しいのに乗っちゃっていいのか? 状態です。NB型が出てくるだろうとばかり思っていましたから、島さんて、改めてすごい人だわ。
つくばーどとロードスターは、ミスマッチのようで、そうでもないのです。
最初のエピソードに始まり、ちょっと前の話(一番下に注目)、少し前の話題や、最近の話題と、少なからぬ縁があります。僕がエスクードのコンバーチブルに乗っているのも、このようなつながりに広がるのです。
しかし、よもやウエストウインの軒先で、にわかロードスターミーティングが開かれようとは、予想だにしていませんでした。隣に並んだNB型は、何を隠そう・・・隠すもなにも、そんなこと知らなかったよ、なのですが、福岡を拠点に九州や西日本でクルマ雑誌などのライターをしている高橋さんの愛車。ほら、あれです、スーパースージー誌面の「九州かわらばん」を書いている人。ここ数回は、ウエストウインのレースレポートも細かく書いてくれている、あの高橋さんです。
それ、反則でしょう(笑 言いがかりを言うな)。スーパースージーのライターだもん、エスクードはないとしてもジムニー、いや少なくとも昔ながらのクロカン四駆に乗っているという先入観を持っていましたから。
「いやいや、四駆雑誌以外でも書いていますから、ぜひ読んでください」
聞けば、このNB型も最近乗り換えたもので、以前はBMWのZ3だったとか。うははー、そのクルマ、昔あったJCJ筑波支部の会長が、いま乗ってますよ。などなど、2台のロードスターで大いに盛り上がるウエストウインの軒先でした。今更言うまでもありませんが、ウエストウインは、バイクと四駆のお店です。
それにしても、高橋さんのNB型は、もうひとり、古い友人を思い出させてくれます。その友人がまた、この街の出身。そして数年前まで、この車体色と同じNB型に乗っていました。そのロードスターは残念ながら直接拝見したことはないのだけれど、よく海沿いの道を走ったり、大分や熊本へのツーリングを楽しんだりしていたという姿を、同じ街に佇みながらイメージを浮かばせるのでした。
と、まあ、何をやってきたんだかという弾丸な九州の旅の様子はつくばーどのレポートと、だんご班長さんのレポートをご覧ください。
僕ひとりです・・・と言ってましたが、実際には荷物に紛れた密航者がおりました。しかもこの小僧が背負っているリュックサックの中には、キタキツネが隠れている。
密航者の連れも密航者? そんなもの、手荷物検査に引っかかったら重罪じゃないかよ。と、どきどき(するのかよ)しながら仙台空港のチェックインでしたが、あっさり通過。つつつ・・・つまらんっ。「これは何奴ですか?」「いやー、たぶん密航者」という対話をしたかったのに。
って、空港職員のおねーさんの仕事のじゃまをするなよ。
こうして乗り込んだ九州は、連日のゲリラ豪雨で、この週末も雨天気の予報。福岡空港着陸前の機内アナウンスでも「雨」と言われ、久々に雨男のレッテルを貼られそうな危機感が漂っていました。事実、空港を出てレンタカーを受領した時点では雨が降っているのです。
うわー・・・こりゃ確定的に惨敗か? と諦めかけたのですが、ウエストウインに到着する頃には雨雲も移動していき、天候は回復傾向になります。昨日の記事で、川添選手のエスクードを視察する島監督が傘をさしていないことで、お分かりになると思います。形勢は逆転です。だって僕は、原則的には晴れ男なのですから。
ウエストウインの面々との宴会が明けた9日の朝は、雲一つないというわけではないにせよ、青空が広がります。一路、高速道路を南下し、隣県の熊本県へ。地元のエスクード仲間であるだんご班長さんや彼が主宰するK4Cの人たちと、鹿児島県から駆けつけてくれたしんいちさんと合流して、阿蘇の外輪山をツーリングに出かけます。ご覧ください、九州のエスクード仲間たちの、お馴染みのエスクードと、大観峰駐車場からの外輪山と、絶好のツーリング日よりな風景。もう汗だくになって大観峰の突端まで歩きましたよ。
「私もねー、普段は突端まで行かずにレストハウスで景色を眺めて引き上げてますねえ」
初代のノマド「ジジ」に乗るだんご班長さんや、二代目FISに乗るニケさんたちとは、初めてお目にかかります。しんいちさんは、二度にわたって関東まで自走してきてくれた縁があり、今回ようやく、その御礼ができました。でも、しんいちさんは鹿児島がホームグラウンドなので、次回は必ず、桜島まで行かねばなりません。
ところが僕自身が15時には車を返却しなくてはならない。押しかけてきたのになんて勝手なやろーなんだと、みなさんを弾丸ツーリングに巻き込んでいきます。大津から大観望を経由して内牧温泉を経由し昼飯を食って、草千里に駆け上るという強行軍。だんご班長さんのリードで怒涛のドライブ。そのくせトレッキング中の女子高生が手を振ってくれるので手なんか振り返しちゃう不届き千万なことを、しんがりをいいことにやらかしている僕。あっ、こういうシーンに出会ったら手を振ってあげましょう。熊本の女の子達はノリがいいです。「きゃーっ」「いぇーいっ」とか大受けしましたです。
しょーもない弾丸ツーリングですが、再び大津に戻るまで、K4Cの面々は、親切に誘導してくれました。感謝の言葉もありません。彼らと大津で分かれて再び高速道路を北上し、福岡空港に戻ると、またもやゲリラ豪雨の予兆。車の返却直後に空港周辺にいくつかの落雷が始まり、あわやというところでチェックインです。
蛇足ですが、密航者とその連れの密航者は、福岡空港でも見つけてもらえず、お前ら何しについてきたんだ? の大敗を喫して、今回の九州行きは完結するのでした。