ちょうど20年前のエスクードの価格表を見ると、現在の2.4XGの販売価格がいかに買い得感を持っているかがわかります。それでもテンロクエスクードが売れていたのは、やはりものめずらしかったし、景気もよかったのでしょうけれど、まだ「クルマがほしい」とステータスを求めに行く魅力も高かったということでしょうか。もっとも、エスクードが高かったかというと、当時の他社四駆に比べたら、買い得感は高かったのですが。
あとまわしになってしまいましたが、先週の土曜日のこと、仕事から帰ってきてようやく晩飯だというところに、狼駄ことシン大尉から電話があって、近所のファミレスに立ち寄るというので、ついさきほど車庫に入れたBLUEらすかるで駆けつけてみれば、ホンダMTXばかり3台。県北までツーリングにでかけてきた帰り道だということでした。土曜日の日中は小春日和でツーリング最適だったでしょうねえ。
そしてこの3台のうち、バーミリオンというか朱色というか、いわゆる赤い車体のそれは、かつて僕が乗っていたMTX。新しい乗り手が決まって、初ツーリングだったそうで、それを見せてくれるために連絡をくれたのでした。一時期モタード仕様にいじられていた(僕が乗っていたころはさらに別の耐久レース仕様だった)足回りは純正に戻されていましたが、当時のマーキングはそのままで、懐かしい対面となりました。
MTXには保存の会というのがあるそうで、シン大尉はそこを通じて近傍のツーリング仲間とコミュニケーションを図っています。何しろモデルがモデルだけに、パーツストックのことはともかく、ライディングやメンテノウハウなど、そういったネットワークがなくてはならない時代なのです。しかし彼らの現在においては、MTXは立派に現役。はたから見たら、なんでいまどきMTXばかり3台?という風景なのだけれど、今、こういうシーンを見せてもらえるのは、一度乗ったことのある身にとっても、なんともうれしいものです。
そういうエスクードも、年式によってはどんどん骨董品になっているわけです。この日(6日)、BLUEらすかるは32万キロを刻んでおります。半年で2万キロか・・・ペース落ちているなあ。
つくば市に所在する、車やバイクのポストカードと書籍、カタログなどを取り扱うノスタルヂ屋のことは、いまさらかしこまって紹介する間柄でもありませんが、知られているようで知られていないことが、現在のお店が4店舗めだということ。
そのルーツは東京の国分寺市にあり、最初と二番目のお店は「ブックガレージ」と呼ばれていました。二番目の店舗は中野区に移転しており、そのころ、車のカタログを探して一度か二度、訪ねたことがあります。
ノスタルヂ屋、というお店は、実は古参のエスクード仲間と交流を始めたころに知ったのですが、このお店が中野のブックガレージとつながりを持つことなどは、そのときはまったく想像もしていませんでした。10年と少し前に、そのつくばの古カタログ専門店に出かけてみたら、中野でお目にかかっていることをお互いに完璧に忘却していた、店主の松浦さんと再会することとなったのです。このとき店舗は、学園都市の東大通という幹線道路に面した、低層の下駄履きアパートの1階テナントに収まっていました。
松浦さんとノスタルヂ屋とのおつきあいは、それ以来の現在に至るのですが、僕の知らない国分寺の時代にまで遡ると、開業当時は車の書籍専門ではなく、美術書や洋書なども扱う、小さな本屋さんから始まっているそうで、現在のスタイルを築いていくのに3年から4年くらいの年月を費やしている。本業を軌道に乗せるまでのご苦労も、当然ながらたくさん積み重ねております。
国分寺、中野から、つくばへ転居してこられたことは、松浦さんならではの経営戦術もあってのことで、つくばの地はちょっとした車文化の根ざした場所でもあるわけです。ただそれ以上に、磐田(静岡県)の海育ちであった松浦さんは、将来は車で走りに行ける山の近くに住もうというビジョンを抱いており、それが筑波山の近郊であったという縁に発展していきます。
そんなルーツからお店を営む松浦さんは、国分寺の開店から数えて、ことし本屋家業の30年めを迎えることになります。つくばにおいては10年とちょっとのお店ながら、その歩みは四半世紀を越えていることに、あらためて驚かされます。今回、ちょっとだけエスクードに絡めて、松浦さんをスーパースージーで紹介させていただきながら、とてもじゃないけれど書きつくせない。だから少しの補完をここで行おうと思い、松浦さんが時々書いているブログから、一遍を引っ張り出してみます。
このエピソードは、同じものが何度か再掲されているため、年次と本文内にある年月にずれがあります。また、このエピソードであるなら12月8日あたりに引用したほうがいいのかもしれませんが、ノスタルヂ屋の前身であるブックガレージが開業したころの逸話の中でも、とても印象深い出来事と、松浦さんの奮戦記を読むことができるのです。
1994年にビッグマイナーチェンジを果たし、なんと2000ccという排気量、ほんとですか?のV型6気筒エンジン搭載に至ったエスクードのロングモデルには、ノマドのサブネームも継承されました。ノマドはTD01、11、31Wに与えられた名前で、その後の直4で2000ccのTD51W、V6で2500ccのTD61Wにはどうしたことか受け継がせてもらえなかった謎があります。
そのことはひとまず棚上げして、TD11Wを主力とした時代の宣伝用スチルも、ノマド=遊牧民のイメージを踏襲します。前年までのしっとりとしたイメージから、より遊牧民のフィールドにストレートに踏み込んだ絵作りをしています。
けれども、そのイメージはずいぶんと大味になってもいるような気がします。このスチル以外に、ショートモデルも含めたカタログカラー各色のエスクードを撮影したものが、カタログに収録されていますが、それらのすべてが、なぜか曇天のコンディションを強行して撮影されているようで、絵的にはぱっとしない不思議な仕上がりとなっているのです。そのうちの1カットは、まったく同じものが、幼児向けの自動車の絵本(正しくは写真の本です)にも流用されていました。
今にして思えば、エスクードのカタログに関しては、このころからコストダウンが始まっており、バブル経済破綻の片鱗が見え隠れしているということなのでしょう。それでもこの時期、エスクードの売れ行きはなかなかのものだったはず。だからこそコストのかかるV6から直4に主力をスイッチしても、エスクードからV6が消えることはなかったけれど、その最終モデル時代のカタログ写真となると、遊牧民の世界観はなくなってしまいます。
1992年の宣伝用スチル(上)と、93年のスチル(下)は、並べてみなければその違いに気がつくことはなかったと思われます。
遊牧民の雰囲気を漂わせる二人が佇む場所と、エスクード・ノマドの置かれている湖畔の位置関係は、今考えてみると、もしも彼らが乗ってきたノマドであるとしたら
「なんでわざわざそんなとこに置いとくんだよ」
と笑いたくなるのです。
ただ、それを差し引いても、この黄昏時の風景は、えもいわれぬ雰囲気を醸し出しています。一説によると、このスチルや、ノマド登場時の遊牧民たちの出で立ちは、実際にはどこの部族にもない衣装でもあるらしいのですが、それも言われなければ分からなかった。
上のスチルに対して、1年後にリリースされた下の写真は、より黄昏時を強調した色彩に変更され、ノマドのヘッドライトにも明かりが灯っていますが(つけっぱなしにしてきたのかよ、という突っ込みは不許可でしょうね)、ノマドそのものはまったく同じサンルーフ仕様でホイールも同じ。色彩などはソフト上で加工しているフシもありますが、同じ日に撮影していることは、積乱雲の変化でわかります。いや、案外、雲さえも書き込んでいるかもしれませんが、そこらへんはすべて棚上げです。
どちらのスチルが良いかは眺めた人の好みによると思われます。
エスクードの歴代の宣伝スチルのなかで、最高の出来映えだったのではないかと今でも感じるのは、やはりCGに依存していない臨場感と、想像力をかきたてるその風景のなせるわざだからでしょう。
おー、生きてるなぁ・・・
義妹が貰って放置した観葉植物その・・・何個目だっけかな。
そろそろ寒いので、乾かし気味に管理中。先日水を遣ったら半日後葉の端に水玉が・・・。
うーん。吸い上げた水がここまで行き渡ったのね(笑)
ディフェンバキアカミラのはずなんだけど、斑が入らんのは何でじゃ???
1991年当時、いや最近まで、この遊牧民一家は三世代を表現していると思っていました。いずれ家督を継ぐ長男親子と、孫の成長を見守る祖父。そして、やがてはひとつの家庭を築き、楽曲の文化に秀でていくであろう次男が勢ぞろいして、長男が新たに迎えた家財道具としてのエスクード・ノマド・・・
と、思っていたのですが、なんだか「そうではない」のではないかと、ふと感じるようになりました。
言わずもがな、エスクード・ノマドは5人乗りの小型車で、その乗車定員をあらわす家族構成は、最大5人まででなくてはならない。だから彼らは・・・ちょっと背丈からみて01エスクは窮屈かもしれないけれど、理にかなっている・・・はずだったのです。しかし三世代の家族を描こうとするとき、5人の構成ははたしてこれでいいのか?と、あるとき思い込んでしまいました。
この家族には、女性がひとりだけ。当時、質実剛健であったかどうかはさておき、とりあえず四駆のはしくれとしてアピールすべきエスクードなので、男所帯であることには別に不都合はないのですが、そうすると、この家族にはグランドマザーが不在となっており、なぜ不在なのか(この写真を撮っているのがおばあちゃん。というのは無しね)を考えると、ファミリー層への売込みをしようというノマドのイメージにかぶせていくのはどうなんだろう? と感じました。
それは考えすぎかもしれないのですが、家長である祖父の伴侶は既に鬼籍に入っているという印象が、ちょっといやになったのです。
よしんば、写真を撮っているのがばーちゃんだとすると、家族構成は安定した人数となりますが、構造上の乗車定員はオーバーです。それはそれで、車の商品イメージに影を落とします。それから些細なことですが、お嫁さんか娘か、この女性が家長の肩に手を乗せて寄り添う構図を、ばーちゃんは寛大な心で見ていることになるけれど、娘であるならともかくも、嫁はこういうことはしないであろうと。男の子が家長の孫であるなら、この女性が男の子の母親でしょうから、彼女は男の子の肩に手を乗せてあげるんじゃないかと思ったわけです。
家長の娘のところに婿入りしたのが一番背の高い亭主の彼であったと仮定すると、外から来た人間として、外来の文化であるエスクードを持ち込んでいるイメージがわいてきますが、そういえば彼の衣装だけは他の家族とは雰囲気が異なる(ただしこの遊牧民たちの衣装は、どこの国のどの地方の・・・といった特定のものではないというお話もあります)。そのあたりの解釈が妥当だとは思いながらも、まだグランドマザーの件を解決できません。
そこで感じたのが、グランドマザーは、家長にとって次男誕生のあとに亡くなってしまったという前提は避けられず、実はこの女性が家長にとっての後添え、実は男の子は家長の三男なのではないかという、ぶっとんだ考え方をするようになってしまいました。家長と女性だけが、衣装の色彩に共通のコーディネートをしていることも、その理屈付けのひとつです。第一、彼女と長男の立ち位地よりも、彼女と家長のほうが距離感が近い。せめて長男が彼女の肩か腰にでも手を当てていたらそうは思わなかったのに、長男の両手は楽器と杖?でふさがっているのです。
さてどうしたものか。いや、どうしたものでもないのですが・・・
樵さんから土木屋さんに
「こないだ、首都高で7台ほど先にBLUEらすかるを発見して、嬉しくなっちゃって連絡しようとしたら、携帯電話を忘れてきていました」
ということでした。はいはい、その日は確かに、久しぶりに車で都内に出ていたのです。
なにしろここのところの運用ときたら、1年間で1万キロを走っていない状態。ツーリングイベントでもなければ、誰かと同時刻に同じ路線を走っていることは、まずないでしょうから、平日の日中の首都高で、勤めている方面もまったく異なるローテックさんと第一種接近遭遇など、びっくりするお話でした。にもかかわらず、こちらは7台後方の車の様子はまったくわからず、失礼をばいたしました。
そういえば、ずーっと昔だったら、学園都市の喫茶店に行けば毎日、誰かしらがいる。という、二種も三種もへったくれもない接近遭遇の日々を過ごしていて、打ち合わせや伝言や連絡にはなんの不自由もない時代があったことを思い出します。
携帯電話どころかポケベルもインターネットもなかったのに、不便も感じなかったのですよねえ。
朝霧高原でのつくばーどのお膳立てには、ことし12月にデビュー10周年を迎えるグランドエスクードのクローズアップもかねて、記録写真の撮影やユーザーさんのコミュニケーションを図れるような展開ができればと考えております。しかしグランドエスクードは二代目世代で既に現役ではなく、潜在的なユーザー層を持っているものの、なかなか大勢が集まることもないというのが実情。
いまのところ、参加してくれるのは四国のCyber-Kさんと、関東のコムロさんだけです。以前、群馬県でミーティングを行ったときの参加台数が6台で、まあ呼びかける企画者側の力不足なのですが、ESCLEV事務局は
「二代目エスクードの変遷(しかしそれもすべてそろってこないんだけど)の中から登場するグランドを取材しますので。あっ、それから、ESCLEVのステッカーは増産しましたから、エスクード、グランドにかかわらず、先着30名さまの参加者に提供します」
などと逃げを打っている始末。増産といっておきながら先着30名というのも、なんだか「そんなに台数が集まるといいね」と言われているようで、情けなやです。
そんなことでくじけてもいられませんので、まずはイベント2日めのふもとっぱらの天気がいいことに期待し、野原せましとエスクードやグランドエスクードが並べられるよう、がんばっていきたいと思います。