「魚を食わせろ~~~!」
と言う新月サンの雄叫びにお応えして。
夕飯は〝冷汁〟
・・・〝鯖〟入ってるもーん。
暑いし、丁度良かったわ(笑)
「魚を食わせろ~~~!」
と言う新月サンの雄叫びにお応えして。
夕飯は〝冷汁〟
・・・〝鯖〟入ってるもーん。
暑いし、丁度良かったわ(笑)
日付の関係から「百年の帰還」を先に出してしまいましたが、仕事で須賀川市役所に行ってきたのです。こんなところに通されたらアドレナリンふつふつとわいてきちゃって仕事にならないってば(子供か俺は ←間違いなくそうです)
つい、打ち合わせは三分以内に済ませないとだめですか?とか、署名はウルトラ文字で書く必要がありますか?とか口にしそうな自分を制し、その手の言葉を禁じ手に過ごすなんともくすぐったい落ち着かなさ・・・
新月サン待望のトマト。
・・・確か桃太郎だった気がするんですが。
私の手に乗せてこのサイズ。
なかなか思うようには育たんねぇ。
あ、味は良かったです。
本気で作ってきた割には月産生産台数が100台というジムニーシエラの購入競争率は、今後ちょっとした話題になりそうですが、発売日にいち早く試乗してきた和邇さんがどう食指を働かせるのか興味があり、また最近は1300系のジムニーを手掛けるようになったフジ・オートの渡辺代表にも新型の印象を聞きたいと考え、緊急会議を無理やり開いてきました。
が、いよいよサイドキックを手放すかと思われた和邇さんは、車検を通すために訪れておりました。
ここまで待ったのだから、出てくるものならシエラのロングを希望しているのが和邇さん。小型車とはいえジムニーのロングというのは、これまでエスクードが築いてきたエポックメーキングを奪うようで納得しかねるのが渡辺代表。しかし長年コンパクト四駆にこだわってきた初代エスクードユーザーにとっては、渡りに船の可能性ではないかと感じているのが僕。
ここで妄想するなら、30年前にエスクードが誕生し、新規マーケットを開拓しながら満を持して追加投入されたノマドが思い出されます。ノマドの登場は、最初のマイナーチェンジとともに2年後に用意されていました。これを新型ジムニーに当てはめると、奇しくも「ジムニー誕生50周年」の年回りになります。
当然、50周年記念の特別限定車などは企画されるでしょう。しかし50周年です。記念企画ものだけで済ませるのだろうか? ジムニーとはあくまで軽自動車としての存在意義が揺るがないことは承知の上ですが、ジムニーを越えるジムニーという提案を繰り出し、いっそのことシエラやジムニーの冠を外して5ドアの小型四駆を生み出してもいいのではないかと感じているのです。ノマドが出てきたあとじわじわとブレイクしていった隙間市場は、今また隙間となっています。やらない手はない。
ちょこっとだけ植えた枝豆が食べごろになりました。
もうちょっともうちょっとと、あまり置いておくと大豆になってしまいますので(笑)収穫。
コンロのグリルで使う専用プレートを買ったので、焼枝豆にしました。
しかし・・・肉でも魚でもなく、初めて使うのが枝豆って・・・
水洗いしただけで塩も振らずに焼いたんですが、旨みが凝縮したのか
甘くて美味しかったです。
エスクードの方は四代目になってもエスクードの名を踏襲していますが、ウルトラマンで初代を名乗るのは1人だけ。ウルトラマンと云う「通り名」に本名をくっつけて(一部例外アリ)、次々と代替わりしてきました。
エスクードはたまに「ノマド」「S」「グランド」などと冠やサブネームもつきましたが、エースとかタロウとかまでの広がりはありません(エスクード・ルーブなんてピンとこないし)
両者を同じ土俵で語りようもありませんが、実は大きな違いが一つあって、何十人ものウルトラマンシリーズがいながらも「ウルトラマン」と示した場合、ほぼ100%、それを「初代」の姿としてイメージすることでしょう。
「エスクード」の場合はどうか。今尚初代のネームバリューは残っているとは思いますが、おそらくそれを所有する人たちによって二代目であり三代目であり四代目が台頭してくるのです。代が新しくなるほど、初代と接するケースは激減しますから、同時に印象も色あせているはず。そのうちこれなんという車?と尋ねられるのかもしれません。
まあそれでも初代は初代で揺るぎないんですけどね。エスクードでウルトラマンに挑むのはちょっと無謀か・・・
「イサキ貰った」
と、新月サンから電話が・・・
以前、筑波山中でのまちゃんが熱中症になった時お世話になった修理屋さんに戴いたそうな。
(新月サンのゴルフ仲間で釣りも趣味なおじさま)
さて。塩焼きじゃ芸が無いしなぁ・・・とレシピを検索したら〝アクアパッツァ〟が出て参りました。
・・・そんな小洒落たモノ作れるのかしら???
と見てみたら、材料切って煮るだけ(身も蓋もない)なので、こりゃいいわ~と作ってみました。
おほほほほ。旨い♥
これは素材の勝利だな。
そして、たっぷり残った煮汁(ぉぃ)はそのままパスタを放り込んで残さず頂きましたわ。
そのエンブレムを取り寄せて貼り付けたエスクードではなく、正真正銘の北米にあった二代目の初期型V6‐2500。しかし後ろ姿だと「左ハンドル」であることに気がつかなければちょっと見過ごしてしまいます。
これは2003年にトロントで撮影されたもので、提供してくださったはMaroさん。彼のお父さんが所有していた個体です。
このグランドビターラを運転したことが、彼のエスクードライフのきっかけであり、お父さんの影響であったそうですが、どうもそのあとに、どこかのエスクード馬鹿にも惑わされたらしく、トロントからの帰国後にノマドを購入し、その後どこかの馬鹿みたいな距離を出しているエスクードと同じスタイルの直四の2000に乗り換えております。誓って言いますが、そのどこぞの馬鹿は当時、そんなことはつゆ知らずに走っていました。
Maroさんは先ごろ、2台乗り継いだエスクードを退役させると決意しました。残念なことですが老朽化と故障の度合いで、それは避けられないことです。が、彼のお父さんが対極にいて、聞けば32年前のセダンをまだ所有しており、
「気に入った車は手放しちゃだめだよ。そういうことならおれはあのセダンを手入れして乗るから、今おれが乗っているTD61Wを譲ろうか」
と、粋なことをおっしゃる。
そんな対話を傍で伺っていたら、書き留めたくなるじゃないですか。というのが、今回出るスーパースージー107号の掲載記事ですが、かなりダイジェストにしてしまったので、30年企画webの方にフィーチャリングしようと思います。
で、その記事は掲載されたのですが、事実は小説より奇なりという「まじですか」な話を別所で聞かされることになろうとは・・・
スーパースージー107号の巻頭特集は、言わなくたって解るだろうよとばかりに24ページにわたって展開する新型ジムニーと新型ジムニーシエラの紹介ですから、読み応えはたっぷりです。
そんな危険な(笑)号に連載枠も併せて5ページ分のエスクードを食いこませられたのは、くどいけれど今年が誕生30周年だったからにほかならず、その企画に協力してくださった沢山のユーザーさんあってのことでした。
カラーページのうち3ページは、5月のイベントに参加された方々の紹介欄なので、掲載された人にしか価値は無いのかもしれませんが、動かなかったら1ページの記録も残せなかったので、意味は大いにあるのです。なぜって、35周年のことをイメージすると鬼以前に自分で失笑するもの。多分「それ」は無いいぜ、と。
しかし、この日取材に来られた二階堂裕さんはその後、謎の一言をブログに書き留めています。
2018年はスズキエスクード、VITARAの30年である。そのために、最近はエスクードの原稿をジムニースーパースージーや別冊ムックの原稿を書いている。
このあたりのことは、僕の手から離れたものなので、真偽のほどはわかりません。が、我々で作った30周年企画webに、初代エスクードをデザインされた片岡祐司さんに寄稿をお願いした際、二階堂さんも依頼していることは確かですし、スーパースージーの手腕であれば現役のエスクード担当者も捕まえることができるでしょう。
ということは、まだ何かしら楽しみがあるのかもしれない。肩透かしかもしれないけど(笑)
そんなわけで腰というより背中を痛めながらぐだぐだに進めた30周年企画も無事に落着しました。まあ歴代エスクードについての記事は既に同誌の104号で扱われているし、カラーページのユーザー欄以外の残り1ページも、当日のイベントの様子を紹介してもらっただけですけど。それから、そのイベント展開の記事については感心させられるほどうちのサイトやブログを読んでくれているなあと思いましたが、個々のユーザーさんの紹介に移ると、細かいところがちょこちょこと間違っています。そこはもう、すいませんと僕からお詫びさせていただきます。
ついでに念押ししますと、107号はいま書店に行ってもまだ並んでませんので、明日までお待ちください。
円谷英二さんが映画の世界と邂逅するのは18歳のとき。1919年のことです。経緯は端折りますが、いま、生誕の地須賀川市で建設されている市民交流センター「tette」に、円谷さんの生涯を紹介するミュージアムが内包される予定で、施設全体が2019年1月に開館する。奇しくも円谷映像職人の誕生から100年めで、英二さんの世界が須賀川に帰還することとなります。ウルトラマンをはじめゴジラ(1954年版を中心に)の展示が考えられているそうです。
まだ市内の松明通りにウルトラ兄弟や怪獣のモニュメントなど無く、電線地中化で設置された点検ボックスにウルトラ影絵が描かれた時代、僕が須賀川を訪れたのは平成の始まった頃でした。当時は青年会議所が円谷英二記念館構想を論じていて、科学特捜隊の流星マークをモチーフとした建物のイメージが描かれていましたが、これが実現することはなく、しかし松明通りや福島空港などを拠点にして、ウルトラマンの世界観をアピールする仕掛けは地道に続けられてきました。
東日本大震災での内陸地震被害を大きく受けた須賀川市が、復興事業の一環として市内の中心地で閉鎖されてしまった施設の解体と新築を実行し、市民交流センターが実現したそうです。「建物の中にウルトラマンの部屋ができるんですよ」と、関係者の声を聞いたのが建物の着工の頃で、地元にしてみれば30年来の努力が実るのだなあと感じさせられたものです。今日7月7日は、英二さん生誕117年めの日。松竹映画入社後第1作の『怪盗沙弥磨』から90年を迎えます。